ゆーべの創作ブログ

マンガ、アニメ、ラノベ、その他創作についての徒然日記でやんす

9月5日(水)⑥ 正体

少女はふぅと溜息をついた後、錫杖を両手で持って、まるで手品のように杖を短くする。キィンという乾いた音が、鬱蒼とした林の中に流れる。「風月丸もういいわ」彼女がそう告げると、黒マントの男は吸い込まれるかのように、少女の影の中に消えていった。

 

 ……た、助かったの? 喫緊の脅威が去ったらしいことが分かり、私は思わず安堵の溜息をつく。自分の足全体から力が抜けていくのが分かる。あぁ、生きてることを実感するってこういうことなんだ。もうこのまま地面に座り込んでしまいたかったが、そうはいかない。

「ジュン! ジュン! 大丈夫? しっかりして!」

 大急ぎで駆け寄って呼びかけるが、ジュンは動かない。まさかもうすでに……。嫌な想像に心臓がドクンと跳ね上がる。私は背中から冷たい汗が噴き出るのを感じた。

 と、そこへ「大丈夫よ」と、背後から、乾いた声が聞こえてきた。

「精気を吸い取られて弱っているだけです。命に別状はないはずです」

 短くなった錫杖を懐に仕舞いながら、謎の少女は言う。

 それから一瞬おいて、少女の言葉を裏付けるように、「うぅ……」とジュンが呻き声を上げた。よかった、生きてた。

「ジュン! 大丈夫?」

 私の問いかけに、後輩はまるで寝起きのみたいに、面倒くさそうに首を振った。

「あー何とか生きてるわ。でも体が動かねぇ 十人組み手をやった後みてぇだ」

 万歳のポーズで寝ころびながら、ジュンはへへっと笑う。少女が言うように、大事が無いようで一安心だ。

「私は服部チカゲ」

 少女が名乗る。意外と普通の名前だなと思った。そのどことなく浮世離れした雰囲気から、私みたいな一般人からは遠い世界に住んでいる人間なのかと思っていたが、本名が知れたことで、案外近しい存在なのかもしれない、という印象を持った。

 一応保健室で診てもらった方がいい、と謎の少女改め、服部さんが言うので私と服部さんの二人でジュンを保健室まで運ぶことにする。しかし、どうやって運ぶのかが問題だ。当然ながら、ここには担架なんてない。自然、私と服部さんの二人でジュンを運ぶことになるのだが、見ての通り、ジュンは身長百七十センチオーバーと、女子としては大柄な部類に入る。先ほどのサメとの大立ち回りを見れば分かるように、服部さんは体力には自信があるだろうが、私は只の一般人だ。一応弓道をやっていたのだが……。

 相談の結果、私がジュンの身体を右から、服部さんが左から支える形で行こうということになった。丁度私と服部さん、二人がかりで肩を貸すような格好になる。

 保健室への道中、雪のように白い服部さんの横顔に問う。

「ねぇ、あなたは何者なの? それとあの黒マントの人とサメは何なの?」

 ジュンのよく日焼けした顔の向こうで、一拍おいて彼女は答える。

「私は……人の世に仇なす魔を屠るもの……退魔師です」

 退魔師……。 映画や小説では聞いたことがあるけれど、あくまでフィクションの中だけの存在だと思っていたわ。それが実在するなんて……。

「そしてあなたが見た黒衣の男……あれは人間ではありません」

「……」

「あれは風月丸、退魔師が利用、使役する鬼神……いわゆる式神です」

 退魔師に式神。突然降ってわいた未知のキーワードに私の頭は混乱寸前だった。日本から全く見知らぬ外国に飛ばされた気分だわ。しかし、ゆっくりと深呼吸して気持ちを落ち着ける。

 そうだ落ち着け私。クールに、クールになるんだ。

 心臓の鼓動が収まったのを確認してから、退魔師の少女に聞く。

「成程、ではあの空飛ぶサメは、あなた達が追いかけていた妖怪か何かっていうところかしら?」 

 概ねその通りです。と服部さんは目を伏せながら言う。

「しかし、若干補足させてもらうと、あのサメも元は式神だったのです」

 私の心臓がまた早くなった。

 服部さんは凛とした表情を崩して、まるで疎んじるかのように言う。

「あれは山鰐」

「やま……わに……?」

「そう、飼い主の退魔師の元を逃げ出し、今は追われる身となった……はぐれ式神です」

 服部さんは表情を全く変えないままに、そう言った。

 

あんたら一体何してきたんだぁ?  保健室に駆け込んだ私達を見た、山本先生の第一声だ。
 生きるか死ぬかの修羅場をくぐってきた生徒に対して、何してきたとは何事かと一瞬憤ったが、横の姿見を見て納得した。そこに映っていたのは見るも無残な二人の女子高生だった。ブレザーとスカートは泥だらけ、ぼさぼさの髪には枯葉が乗っかっている、人間に化ける狸か私たちは。ここで私たちは山本先生に事情を話……すわけにはいかず、とりあえずジュンが貧血で倒れたことにし、ベッドを使わせてもらうことにした。

 独身の美人校医は困惑しながらも、ベッド使用許可を出してくれた。私と服部さん、あと山本先生の三人でジュンをベッドに寝かせる。
「相馬、あんたが貧血なんて明日は槍でも降るんじゃないか?」
 やだなぁ、やまもっちゃん。流石の私でも貧血ぐらい起こすぜ、っていうか今日は女の子の日だし。いちいち言わせんなよ恥ずかしい。
 と、全く恥ずかしくなさそうにジュンは言う。正直言って聞いてるこっちの方が恥ずかしいわ。でもジュンの様子を見ている限り、サメにやられたダメージはもう大丈夫そうね。っていうかさっきの戦いで思いっきり噛まれてたわよね? 本当に大丈夫かしら? でも見た目にはどこも怪我してないし……ジュンこそ妖怪じゃないのかしら?
 山本先生には若干後ろめたい思いがしたが、致し方ない。まさか学校の敷地内で空飛ぶサメに襲われましたなんて言えるわけがない。
 ジュンをベッドに寝かせたあと、山本先生は会議があると言って、保健室を出て行った。すまないがあとはよろしく頼む、と先生は言っていたが、私達にとっては好都合だ。
 私、ジュン、服部さんが残された保健室。幸いなことに他の生徒がベッドを使っている、ということもなかったので、ここで服部さんの話を聞くことにする。ジュンはベッドに横になりながら、私と服部さんは丸イスに腰掛けて会談が始まった。
 服部さんは一度大きく息を吐いた後、ゆっくりと話し始めた。
 
 
 
 山鰐とは、里に現れ人や家畜の精気を吸う妖怪です。妖怪……の他にも、物の怪、怪異、妖魔、悪霊、魔物、魑魅魍魎、鬼……呼び方は様々ですが、ほぼ同じ意味です。現世に現れしモノどもなれど、現世のモノにあらず。人の世に有りて、人に災いをなす者たち。それが彼らです。
 窓の外からは、野球部のモノだろう、しまっていこーという大きな掛け声が聞こえる。それに被さって、今度は女子テニス部か、ポーンポーンというボールを打ち返している音も聞こえる。
 ……しかし、服部さんの話を聞いて、私は掛け声がひどく遠くの世界から聞こえるような気がしてきた。山鰐? 妖怪? 悪ふざけもいい加減にしてほしいと思った。しかし、その情動をぐっとこらえる。なぜなら、私がつい三十分前にしてきた恐怖体験。サメに散々追いかけまわされ、危うくお昼ご飯になるところだったのだ。それらの経験が、彼女の荒唐無稽な話を裏付ける証拠となっているのだ。
 とにかく服部さんに命を助けてもらったのは事実だ、そのことに関して、お礼を言っておくのが礼儀というものだろう。
 窓の向こうに駐輪場が見える。男子が一人、マウンテンバイクを出そうとしている、白をベースに青色の縁取りがされたエナメルバッグは陸上部のモノだ。
「ねぇ服部さん」
 私はこめかみに手をやりながら言った。
「チカゲでいいですよ」
「…………じゃあチカゲちゃん」
「はい、何でしょう」
「まず最初に、助けてくれてありがとう。あなたがいなかったら私達は死んでいたわ」
 同時にジュンもベッドからペコリと頭を下げる。一応人にお礼を言うという心遣いはあるのね。
 どういたしましてとチカゲちゃんは言ってから、目の前のお茶を口に運ぶ。
 しかし、改めて口に出してみてゾッとする。一歩間違えば、私は顔の半分を齧り取られていたのだ。
「ナナミさん」
「え?」
「ナナミさんはちょっと誤解されているみたいです」
「誤解? 何をかしら?」
「さっきナナミさん達を襲った山鰐。別に人を食い殺すような妖怪ではありません」
「え? そうなの?」
「確かに人を食うような妖怪はいます。しかし山鰐はそういった妖怪とは一線を画するものです」
「……」
「えーマジかよ? でもあんな強悪そうなツラしてやがったぜ」
 ベッドの中でジュンが口を尖らせる。気のせいかさっきよりリラックスモードになっている。でも確かにジュンの言うとおりだ。あの酷薄そうな目、大きく開けられた真っ赤な口、そして何よりその口から伸びた蛇のような触手。思い出すだけで膝が震えてくる。
「何事も見かけによらず、それは人も妖怪も同じです。確かに山鰐は恐ろしげな見かけをしています、しかし、彼らが主食とするのは人間や動物の精気です。襲われた人間は精気を奪われ、一時的に疲弊したような状態になったり、意識を失ったりします。しかし、それ以上の害悪を山鰐は与えるものではありません」
 そこまで聞いて、私はアカリの事を思い出す。私の大事な仲間であり、友人。彼女を襲ったのは多分、いや確実に山鰐だ。山鰐は旧校舎に潜伏していて、運悪くそこを訪れたアカリを襲って、その精気を奪ったのだ。気の毒なアカリ。彼女は襲われた瞬間、何を思っていたのだろうか。
 しかし、チカゲちゃんの今の話を聞いて、少し安堵したのは事実だ。なぜなら彼女の話によれば、山鰐に襲われても、命に別状はないのだから。
「その山鰐っていうのか? なんでこの学校にそんなワケの分からないものが出たんだよ?」
 まるでよそに行ってほしかったと言いたげな口調のジュン。まぁ気持ちも分からないでもないけれど。
「それは……」
 言いよどむチカゲちゃん。ここまで快調に説明をしてきてくれた彼女だが、ここで初めて口ごもる様子を見せる。こころなしか、どこか気まずそうな表情だ。
「申し訳ありません、その説明をする前にいくつか前もって伝えなければならないことがあるんです」
 伝えなければならないこと? 
「そうです、私とあの黒衣の者、式神・風月丸<ふうげつまる>の事を」
 その時、私の脳裏に長身の黒マントを来た男の姿が浮かんだ。
 式神・風月丸
 チカゲちゃんはそう言った。
 式神? 確か漫画や小説に出てくる……。
「さっきナナミさんにも言いましたが、私は……退魔師です」 
 うん、さっき聞いた。
「タイマシ? 一体なんだよそれ?」
 ジュンが眉毛を寄せて訊いた。ああ、そうか私が聞いたときは、純は気を失っていたっけ。チカゲちゃんはこくりと頷いてから、
「はい、苛烈な修行で法力を身に付け、人の世に仇なす魔を討滅する、それが私たち退魔師です」
「退魔師ってあれだろ? オンミョウジとかアベノセーメーとかってあれの事だろ?」
「概ねその通りです。まぁ退魔師といっても、それこそ平安時代から続く家柄の者もいれば、つい最近になってから興った家の者まで様々ですが」
 一口に退魔師といっても色々な人がいるってこと? 
「そうですね。私のように現場で実際に妖怪を祓う者もいれば、実戦の場には出ず、民間の方たちにお札を売ったりすることで生計を立てる者もいます。要は三者三様ですね。昔は家柄で区別することが多かったらしいです。何しろ旧態然とした業界ですから」
 成程ねぇ、しかし退魔師なんてフィクションの世界では聞いたことはあるけれど、現実に見たのは初めてだわ。
「あはは、そういうものですよ。実生活で退魔師と関わることなんてそうは無いですからね。退魔師という職業の存在すら知らない人も多いでしょうね」
 チカゲちゃんは自嘲気味に笑う。おそらくは日陰者として、私には想像もできない色々な経験をしてきたのだろう。
 ところでさ、と頬杖をつきながらジュン。
「あの黒いマントしたでっけーやつは何なんだ? さっきナントカ丸とか言ってたけど」
 それは私も聞きたかった質問だ。っていうかジュン、思いっきりリラックスしているわね。まるで自宅でソファに寝転びながら、テレビを観るような体勢じゃないの、全く。まぁこれでジュンの体調はもう問題ないということが分かったわ。
「あれは……風月丸です」
 「「風月丸?」」 
 私とジュンの声が見事にハモる。
「はい、退魔師がその任務を果たすために利用・使役する妖怪……いわゆる式神です」
 式神……私は心の中でその言葉を反芻する。
「そう、そして式神を使役し、妖怪を討滅することを生業とする退魔師たちの事を『式神使い』と呼びます」
 私とジュンはお互い顔を見合わせる。
「そして私の生家、服部家は平安時代より代々続く、式神使いの家なのです」
 チカゲちゃんは私とジュンを見据え、まるで何かを宣言するかの如く言った。
平安時代って、そんな昔から?」
 さすがにこれは驚いた。
「はい、古い記録によれば、私たちの先祖は帝に仕えていたとか」
「はぇー由緒正しい家なんだねぇ」
 呑気そうに言うジュン。
「妖怪の討滅に使う以上、式神は通常の妖怪よりも強い力を持ったモノに限られます。自然、その強力な式神を抑えるため、術者には強い肉体と意思が要求されます」
 そう答えるチカゲちゃんの顔は、どこか誇らしげだ。まぁ無理もないか。
「ところでなんだけどさぁ」
 と、ジュン。
「チカゲってこの学校の生徒なのかい?」
 その質問を聞いて、チカゲちゃんの顔が一瞬引きつる。もしかして、地雷を踏んでしまったか? 
「実は……私はこの学校の生徒じゃあないんです」
 申し訳なさそうに答えるチカゲちゃん。
「やっぱりねぇ。何か見たことない顔だなぁって思ってたんだよね」
「この学校の生徒じゃないって、何で、どうやってこの学校に入ってきたの?」
 私の言動にどこか非難めいたところを感じたのだろう。チカゲちゃんは、ますます縮こまる。
「あっ ごめんなさいね。別にチカゲちゃんを非難してる訳じゃないのよ? 実際あなたがここに来てくれたからこそ、私達は助かったんだし。私はどうやってここに来たのか、その理由と方法が知りたいの」
 私の真意を汲み取ってくれたのか、チカゲちゃんはポツポツと語り始める。
「一週間ぐらい前にこの学校の前を通りかかったら、異様な妖気を感じたんです。こんな街中では絶対にありえない、くらいの妖気だったのでこれは何かあるなと感じたんです。すぐに退魔師協会……日本の退魔師の大元締めの組織なんですけど、そこに連絡をとったら、すぐにこの学校に潜り込む算段をつけてくれたんです」
 チカゲちゃんはサラリと言うけれど、これって実はすごい事なんじゃないのかしら? チカゲちゃんが言うにはおそらく籍はこの学校にはないのだろう。しかし、制服などはどうしたのだろうか? 二日や三日で揃えられるものなのだろうか? もしかして、私の想像も及ばないいかがわしい方法で……。
 私がそんな事を考えていると、もはやベッドを自分のモノとしてしまった空手少女が言った。
「ナナミンよぅ、もう別にいいじゃあねえか」
 その諫めるような口ぶりに、ちょっとムッとしながら、
「分かってるわよ、さっきも言ったようにチカゲちゃんがそこまでしてくれたからこそ私たちは助かったんだし、そのことに関してはチカゲちゃんに感謝してるわよ、これくらいの事、ジュンの文化祭の出し物に比べたら……」
 そこまで口に出してから、私の思考に引っ掛かるものがあった。……何だ、一体何が引っ掛かっている? 
 ………………。
 …………。
 ……。
「大変!」
「わぁッ! 何だよ、急に大きな声出すなよ! びっくりするじゃねえか!」
 ジュンの抗議の声を無視して、私は指折り数える――そうだ、文化祭だ。今日が九日だから、あと四日、いや正確にはあと三日だ。
 私は、隣の退魔師少女の目を見据えて聞く。
「あの山鰐なんだけど、あのあとどうなったの? もう死んじゃったの?」
 黒髪の少女は少し面食らった様子だったが、しばし考え込む仕草をしてから口を開く。
「山鰐が死んだということはあり得ません。山鰐もそうですが、妖怪というものはもともと非常に生命力が強いのです。あれくらいの怪我、彼らにとってはものの数に入るものではありません、おそらく一日もしないうちに、また人を襲い始めるでしょう」
 退魔師は冷厳にそう宣告する。
「……おいナナミン、大丈夫か? 顔色悪いぞ?」
 当たり前だ、顔色の一つも悪くなるというものだ。
 文化祭。我が菊川高校、年に一度の大イベント。その最重要行事が四日後に迫っているのだ。特に今年は創立八十周年記念ということで、特に周辺地域で大きな注目を浴びている。プロモーション活動も沢山やった。地元の新聞に小さいながらも記事を載せてもらった。ラジオ局の取材も受けた。学校のホームページで大々的に宣伝もした。その甲斐あって地元の人々の反応は良い印象を与えている。当日は生徒はもちろんの事、保護者、OB、果ては県知事、市長、県会議員、地元の有力者といった名のある方々がやって来ることになっている……。
 そう、やってくるのだ。無防備に……! 山鰐が手ぐすねひいて待ち受けている、この菊川高校に……!
 私は大きく身を乗り出して訊く。
「山鰐は本当にこの学校に居座る気なの? それともひどい目にあったから余所に行ったりとかしないの?」
 私の顔が目と鼻の先まで迫ってきたので驚いたのだろう、チカゲちゃんは少し引き気味に答える。
「ざ……残念ながら、山鰐は一度餌場を決めたらテコでもそこを動きません。あの山鰐は確実にこの学校を狩場にしました。もうこの状況を打破する方法は二つしかありません、この学校から人が一人もいなくなるか、または私達が山鰐を討滅するか、このどちらかです」
 チカゲちゃんの返答は、残念な現実を示していた。チカゲちゃんが示してくれた提案の内、前者は論外だ。後者は……。
 私は彼女に懇願する。
「お願い山鰐を退治して。もうすぐ文化祭なの、当日は保護者や地元の有力者も沢山来るの、そんな中で山鰐が暴れ出したら大変なことになるわ」
「そ、それはもちろんお引き受けします。しかし、今すぐというのはいくらなんでも無理です、私の方でも準備というものが……」
「何日なら大丈夫なのかしら?」
「山鰐という妖怪は、式神に使われていたことからかなり格の高い妖怪です。はっきり言って今の私では手に余ります。そうですね……」
 チカゲちゃんはその細いおとがいに手を添えて、考え込むような仕草を見せた。
「退魔師協会に協力を要請して、必要な道具を揃えて……どれだけ少なく見積もっても、一週間はかかります」
 一週間……駄目だ……遅すぎる。文化祭の初日は三日後だ。どれだけ遅くとも土曜までには山鰐を何とかしないといけない。
「今週の土曜までにお願いできないかしら?」
「む、無茶言わないでください!」
 チカゲちゃんは切れ長の目を見開いて、大きくかぶりを振った。
「さっき見た山鰐はまだ幼獣でしたが、ジュンさんの精気を吸ったことでもうすぐ成獣になります。山鰐は人を殺めたりこそしませんが、狡猾な、油断のならない相手です。事前に入念な準備が必要です! ましてや今回はあと三日という制限もあります。絶対に失敗は許されません! だから……」
「だからよチカゲちゃん……」
 私はチカゲちゃんの目をしっかり見据える。
「どれだけ入念に準備しても、日曜の文化祭本番に間に合わなければ、何にも意味はないわ」
 だったら……。
「なぁチカゲよぅ」
 ジュンが黒髪の少女に訊く。
「まぁアタシはそのー退魔師とか式神とか全然分かんねーんだけどさ、今お前の手持ちの武器と、あの風月丸だっけか? それだけであのサメ公をやっつけらんねーの?」
「それは、絶対に無理というわけではありませんが……」
 だったらさ、とジュン。
「その一縷の希望にかけてみるってのが女ってもんじゃないの?」
 無法者の空手少女はくつくつと笑う。その反対に、チカゲちゃんはまるでテスト中にヤマを外したような表情でうぅと唸る。
「だったら……どれだけ拙くてもいい、成功する確率が低くてもいい、『無事に日曜に文化祭初日に文化祭を迎える』という目があるほうに賭けたいの」
「だったら……」
 麗しき退魔師は、何かを決したかの様にいう。いや、事実それは何か重大な決意をした者の目だった。
「特急料金で五百万円を払っていただきます」
 ……え。……ご……ひゃくまんえん。
 ってあの五百万円ですか? 一、十、百、せん、まん……。
「そうです。基本の除霊料金、手数料、道具代、それプラス特急料金と時間外手当。全部込みで五百万円です」
 チカゲちゃんは私の目を見据えて言う。どうやら冗談でもなんでもなく、本気でこの娘は言っているらしい。
 ……腰から力が抜けていく。危うく椅子から転げ落ちそうになる。
 五百万円? うちの文化祭の運営費でも十万円とかそれくらいなのよ、なのにそれの五十倍なんて冗談じゃないわ。生徒会の承認がおりるワケないじゃない。
「別にそんな不当な額でもないと思いますが」
 退魔師はしれっとした表情で言う。
「さっきも言ったように今回の仕事は、何よりも時間がない。あと四日で山鰐を見つけ、倒し、この学校も浄化しなければならない。そのためには武器は、値の張る裏ルートから買わなければならない」
 ぐぅ……。
「それとナナミさん」
「?」
「料金の出所はどこでもいいんですよ?」
 どういう事かしら? 
「別に文化祭運営費から出さなくてもいいんじゃあないかと私は思っているんです」
 チカゲちゃんの黒い目が、インパラの仔を見つけたチーターの様に光る。
「まさか……」
「五百万円を支払うのは、ナナミさん個人でも構わないと、私は言っているんです」
 じょ、冗談じゃないわ! 
 私は思わず椅子から立ち上がる。その勢いで丸イスがガタンと倒れ、行き場をなくしたかのように床に転がる。
「五百万円よ! そんな大金、高校生の私が払えるわけないじゃない!」
「別に今すぐ払って下さいと言っているわけではありませんよ」
「?」
「ローンですよローン。ナナミさんもあと四、五年で就職するわけでしょう? 支払開始はそれからでも構わないと言っているんです。まぁ学生の内からでも、アルバイトをして返してくれても構いませんが」
「……」
「あっ、そうそう特別サービスで、無利子で構わないですよ」
 チカゲちゃんはニッコリ笑うが、私はそれが魔女の笑みに見えて仕方がない。
 あ……悪魔だ、この娘……。人の弱みに付け込んで……。
 最初、私はこの娘を見かけ通りの貞淑な女の子だと思っていた。しかし、どうやらその考えを改めなければならないようだ。
「私の言っていることが不当だと思いますか? 前もって言っておきますが、それは違うと思います」
「どういうことだよ?」
 ジュンが横から口をはさむ。
「あなた達が身を以て体験したように、妖怪退治はけっして遊びではありません。今回の山鰐は幸いにも人を襲いこそすれ、命まで奪うような妖怪ではありません。しかし、退魔師をやっていれば、人を食う妖怪など、当然の様に現れます。そんな危険な妖怪たちと私たちは日常的に戦っているのです。もちろん事前に入念な準備はします。しかし、下手をすれば命を落とす危険と常に隣り合わせの世界で私たち退魔師は生きています。それを考えるに五百万という値段は決して高くはないと思いますが?」
 私は何も言えない。私は確かにただの一高校生だ、チカゲちゃんの様に命のやり取りをするようなシビアな世界にいるわけでもない。今までの十七年間の人生でも命の危険にさらされたことなどない(さっき山鰐に襲われたことは除く)。そんな私に常日頃、ヒリつくような生活をしてきたチカゲちゃんのいう事は分からない。もしかしたら、彼女のいう事は正当で、私の言っている事こそが間違っているのかもしれない。しかし……。
「おい、ナナミン」
 私が俯いているところに、ジュンが声をかける。
「非常に言いづれーんだけどよ、現実問題五百万なんて無理だろ?」
「当たり前よ」
「だったらさ、いっそのこと文化祭をさ……」
 なんだろう? 明朗な彼女にしては珍しく歯切れが悪い。
「文化祭を中止にしたらどうだ?」
 ジュンの口から出てきたのは意外な言葉だった。
「中止?」
 私が大きな声を出したからだろう、ジュンは弁解をするかのように続ける。
「いや、ナナミンの気持ちは分かるよ? 文化祭実行委員長なんだしさ? 今年の文化祭に賭けてるってことも知ってるよ」
「……」
「でも現実問題無理そうじゃん? 文化祭やろうとしたら空飛ぶサメは出ます、退治しようとしてもお金がありません。もう、こうなったら文化祭の中止も考えた方がいいと、アタシは思うんだよね」
 文化祭を中止? 冗談じゃないわ。半年前から準備してきて中止ですって? ここまで来るのにどれだけ苦労したと思っているのよ。
「落ち着けよナナミン。顔が近いぞ、あと唾をとばすな」
 ジュンが抗議するが私には聞こえない。
 何回も委員会を開いて、宮本先輩からもプレッシャーかけられて、各クラスの委員の意見聞いて出し物もなるべく被らないように調整して。
 ごめん、ジュン。やっぱり中止という線は考えられないわ。
「じゃあどうすんだよ。結局あの山鰐をなんとかしねぇと文化祭なんてできねぇぞ」
 それは分かっている。分かっているけれどどうすることもできないの! 
「いいかナナミン、よく考えてみろよ」
 ジュンが諭すように言う。何か腹立つわね。
「このまま本番までいったらどうなると思う? 目に見えるぞ、逃げ惑う人々、飛び交う悲鳴、文化祭当日は阿鼻叫喚の地獄絵図だぜ? もしそんなことになってみろよ、ナナミン一人の責任じゃ済まないぞ? この学校が『文化祭当日に怪物が現れた学校』として未来永劫、半永久的に語り継がれていくんだぜ? 想像してみろよ、当日はカメラ撮影してるヤツも沢山いるだろうさ。YOU TUBEで『菊川高校』で画像検索したら、サメが人を襲ってるサムネイルが出てくるんだぞ、お前そんなの耐えられるか?」
 無理。絶対。
 私は決してこの学校に、強烈な愛着を持っているわけではない。そりゃあまぁ自分の通っている学校なんだから好きといえば好きなんだけれども。でもうちの学校が未来永劫、不名誉な名前で語り継がれていくのはガマンがならない。
 やはりここはジュンのいうとおり、文化祭は中止の方向でいくしかないのだろう。
 今日あったことは全て宮本先輩に報告する必要があるだろう。正直言って気が重い……。

 

 ジュンの体調も回復したようなので、私達三人は保健室を出ることにした。一応ジュンに体の具合は大丈夫かを聞いたのだが、当の本人は「大丈夫だよ」とのことだった。
 生徒会室に向かう私の足は重かった。
 一体宮本先輩になんと説明すればよいのだろう? 
 山鰐という妖怪が出るので、文化祭を中止にしてください、と真正直に言う? しかし、そんな報告をあげたら、なんて思われるだろうか? 間違いなく私の頭がおかしくなったと思われるだろう。大丈夫、私は思いっきり正常ですよ先輩。おかしいのは妖怪が出たという、この現実です。
 生徒会室に先輩はいなかった。他の役員に確認したところ、もうすでに帰ってしまったとのことだった。
 一瞬、胸を撫で下ろすものの、悪い報告が明日に延びただけということに気付き、溜息をつく。
 ジュンとチカゲちゃんに相談したところ、電話では詳しい内容を伝えることができない可能性があるため、先輩には「重要な話がある」ことだけを伝え、詳しい内容は明日にいう事にする。
 校門を出る。家に帰る道すがら、先輩に電話をかける。三回目のコールの後、先輩が出た。
「もしもし、どうしたのナナミ?」
 外国映画に出てくる、往年の名女優のような声だった。
「大事な話があるのですが」
「何? 重要な話って」
 先輩の声は少し心配したようなトーンだった。私のことを案じてくれているのだろうか。明日の報告の内容を考えると胸がズキッと疼いた。
「電話では話しづらい内容なんです、詳しいことは明日の朝、生徒会室でお話します。済みません」
「……分かったわ。じゃあ明日の朝、生徒会室で」
 と、だけ返事をし、通話は終わった。
 スマホをカバンにしまい、ジュンとチカゲちゃんの方を見る。二人とも最前線に送られることが決まった少年兵を見るような目で私を見ている。
「大丈夫か、ナナミン?」
「大丈夫よ、へっちゃらだって」
 そう強がりを言って、手をひらひらと振る。
 九月の夕暮れは早い。頭の上で煌々と照る街灯が、夜の到来を告げていた。