9月6日(木)⑧ 作戦開始
「では今夜中にやっておくべきことを言います」
チカゲちゃんのその言に私は頷いた。
「えー今からやんのかよ。もう九時半まわってるじゃん」
ジュンが渋る。そんな空手少女を私はたしなめる。
「当たり前でしょ、学園祭はもう明後日よ。もう時間がないの」
時間はいくらあっても足りないくらいだ。
「それでは、今日中にやっておくことですが……ジュンさん、さっきのパンフレットを貸してもらますか」
ジュンから受け取ったパンフを、マットの上に広げる。開けているページはさっきと同じ学校の見取り図の所だ。
するとチカゲちゃんは目を閉じ、胸の前で印を組んだ。そして何やら聞いたことのない呪文を詠唱し始めた。
するとどうだろう、目の前のパンフが青白く輝き始めたではないか。そしてその光は一点に集中していく。
「おい、ここって……」
そうジュンが指さしたのは旧校舎だった。
「間違いありません。今現在、山鰐はそこにいます」
いつの間にか目を開けたチカゲちゃんが言う。
「今のは索鬼術といって、妖怪がどこにいるのかを探る術です」
「その術によれば、山鰐は今、旧校舎にいるというわけね」
私は頷いた。
「目標のいる場所が分かったのはいいんだけどよ、そこからどうすんだよ」
ジュンが首をひねる。
「ヤツが逃げないように、ここら一帯を……」
言いながらチカゲちゃんはパンフの上に指を滑らせる。
「結界で囲みます」
「どうやって?」
私の問いかけを受けて、チカゲちゃんはまたもやリュックの中をまさぐりはじめた。そして取り出したのは、またもや結界石だった。
さっき、私が受け取ったものとの違いは、色と、あと大きさだった。さっきの石はソフトボールくらいの大きさだったが、今度はふた周りほど小振りだ。ゴルフボールほどの大きさしかない。
「これを使います」
そう言って、チカゲちゃんは少し不敵に笑った。
「それなんだよ? 見たところさっき、ナナミンに渡したヤツ……結界石だっけ? それの色違いバージョンに見えるんだけど」
「さっきナナミさんに渡したものは、あくまでも守り専用のものです。でもこれは攻めにも使える結界石なんです」
「こんな小っちぇーのが? さっきの方が大きかったじゃん」
ジュンはマットの上に転がった石を拾い上げ、しげしげと見つめた。
「これを見てください」
言ってから、チカゲちゃんはリュックの中から大きめの巾着を出し、それの口を大きく広げた。
「おぉっ!」
私とジュンは思わず声をあげてしまった。巾着の中には例の紅い結界石が、ぎっしりと詰め込まれていたからだ。こうやって見てみると、結界石って本当に綺麗だ。冗談じゃなく、美術品としてもそれなりに価値があるんじゃあないかしら?
「こんなに沢山の結界石をどうするんだよ」
ジュンの問いかけにチカゲちゃんは、まなじりを据えて言う。
「この結界石は、一個だけでは大した効力はありません。しかし、この石に囲まれた場所に、強力な結界を張ることができます。そして、妖怪はその結界の中に入ることも出ることもできません。そして、この結界石で、旧校舎を含むこの一帯を囲みます」
なるほど、山鰐が逃げないように、結界の中に閉じこめてから、ゆっくりと退治しようというわけか。
「よし、そうとなりゃ善は急げだ。はやく取りかかろうぜ」
ジュンが立ち上がろうとしたところを、チカゲちゃんが止めた。
「その前に、お二人に注意事項があります」
「どうしたの?」
「この作業をするためには、山鰐に逃げられてはいけません。もし逃げられてしまったら元も子もありません。もしそうなってしまったら終わりです。以降、山鰐に警戒されてしまって、ヤツを結界に閉じこめることは困難になるでしょう」
「なるほど、山鰐に気づかれる前に全ての作業を終わらせる必要があるってぇことか」
「それで、その肝心の山鰐は旧校舎から動いていないの?」
「はい、さっきから微動だにしていません。これは私の予想なのですが、おそらく山鰐は眠っているものかと思われます」
「妖怪も眠るってか!? ハン! アタシら人間様が眠くて腹減ってるのを我慢してるってぇのにノンキなものだねぇ」
ジュンが鼻を鳴らしながら悪態をつく。
「おそらくは昨日に沢山『食事』をしたので、体力を回復させているのでしょう」
食事……。それは日常でもよく耳にするキーワードではあったが、今現在の状況で聞かされるには、多少ハードなものであった。確かに生き物が食事をするのは当然だ。生きるためなのだから。実際に私も動物番組で、ライオンがトムソンガゼルやシマウマを襲って食べるシーンをいくつも見てきた。小さい頃は、そんな残酷な映像からは目を逸らしていたけれど、中学に入るころには平気になっていた。『所詮は自分とは違う動物だから』という考えができるようになっていたからだろう。
だからこそ、昨日見た光景は私の心に衝撃を与えたのだった。
自分と同じ人間が、まったく別の生物に襲われるというのは、こんなにもショックなものだったのか。
「ナナミさん、どうしましたか?」
気づくとチカゲちゃんが心配そうにのぞき込んでいた。
「え、い、いや何でもないのよ。少し考え事をしていただけよ」
私は少しオーバーなジェスチャーで否定した。
「そうですか……なら良いんですが。ナナミさん、昨日のことでショックを受けていらっしゃるようなので、心配していたんですよ?」
うぅ……見抜かれていたのか。やはりこの娘はするどい。
私の動揺を知ってか知らずか、ジュンが立ち上がって言った。
「よし、作戦が決まったんなら動き出そうぜ。とりあえず、例のサメを網にかける準備をするんだろ」
それを受けて、私とチカゲちゃんも立つ。さぁ出発だ。とりあえず山鰐を退治するための第一段階の始まりだ。
体育倉庫の出口を出たところで、先頭を歩いていたジュンが、ふと立ち止まった。
「何? どうしたの?」
「……何かさ、作戦名考えねぇ? ホラあるじゃん映画とかでさ、『赤い砂作戦』とか『砂漠の鷹作戦』とかさ」
ジュンの目は、カブトムシを見つけた小学生のようにキラキラしていた。
ジュンのそんなくだらない提案は0.1秒で却下し、私たち三人は目的地に移動するのだった。
「よし、ここぐらいでいいっか」
私は土のグラウンドの上に結界石を置いた。
『大体三十メートルくらいの間隔を開けて、石を置いてください』との指示だった。
三十メートルというと、どれくらいの間になるんだろう? 教室の幅くらい? いや、もっとあるか。
いちいちメジャーで計るのも億劫だし、私たちは目分量で石を置いていくのだった。
石で囲む範囲は結構な広さだった。旧校舎、グラウンド、そして私たちがさっきまでいた体育倉庫。たった三カ所かもしれないけれど、これだけでも学校の全敷地の四分の一くらいの広さになる。
「よーしもうちょっとだ。気合い入れようぜナナミン」
「何よジュン、さっきは眠いとか言ってたくせに」
「あン? 言ってねーよ、そんなこと」
「言ってた」
「いつだよ! 何時何分何秒!?」
「ナナミさん、ジュンさん。もう少しですよ」
私とジュンの争いは、チカゲちゃんの一言で終わりを告げた。
結界づくりを始めて一時間ほど、作業はそろそろ終盤に近づいてきた。
まぁ作業と言っても、地面に石を置いていくだけの単純なものなのだから、そんなに難しいものでもない。
難があるとしたら、この広さだったけど、集中して作業していると大して苦にもならなかった。
本来なら、手分けしてやればいいのかもしれないけれど、それはしなかった。私たちは三人一緒に固まって結界づくりをしてきたのだった。理由は山鰐だった。
件の怪物は、今は旧校舎でお休み中らしいが、いつ目が覚めて、私たちを襲ってくるか分からない。チカゲちゃんならまだしも、もし私やジュンが一人の所を襲われたら、ひとたまりもない。まぁ空手の有段者であり、さっき秘密の武器をもらったジュンなら何とかするかもしれないけれど。そういえば、ジュンって一回生身で山鰐を撃退しそうになったことあったわよね。
そんなんで、けっこう広範囲のエリアに、こんなゴルフボールくらいの大きさの物体を置いていくのだから、それなりに手間取ってしまったのだった。
「よーし、これでラスト!」
そう言って、ジュンはまるでアメフトのタッチダウンのように、最後の結界石を地面に据え付けたのだった。
「ふー終わったわね」
私が額の汗を拭う仕草をすると、ジュンがハイタッチのようなポーズを取った。どこまでも体育会系の娘だった。私はジュンのアクションに応じてやる。
横を見ると、チカゲちゃんが目を閉じて、何か経文を唱えていた。それからしばらくすると……地面の結界石が紅く光り出した。
「こ……こりゃあスゲェや」
傍らで佇んでいたジュンが、感心したような声を出した。そして私もジュンの声に同意だった。均等に並べられた宝石が怪しく光る、それはとても美しく、幻想的な光景だった。
地面の結界石の発光は一分ほど続いただろうか。チカゲちゃんが経文を唱えるのを止めると、徐々に光を失っていき、最後は元通りの石になってしまった。
「よし、とりあえずこれで一段落です。これで山鰐は結界から出ることはできません」
チカゲちゃんはポケットからハンカチを出して、額を拭った。
「じゃあ後はゆっくりと山鰐を退治するだけだな。ふぅ、一区切りついたと思ったら、腹が減ってきたぜ、ちょっと遅いけど飯にしねぇか!?」
「えぇっ!? ジュン、さっきハンバーガーショップでセットメニュー食べてなかった? もうお腹減ったの!?」
「あんなの食べた内に入んねーよ。いつもだったら、アレの三倍は食べてるぜ」
どれだけ大食漢なんだ……。
何はともあれ、ジュンの提案には賛成だった。何しろ、昨日から山鰐襲撃への対応やら、山鰐退治の準備やらなんやらで、てんてこまいだったのだ。そのせいでろくに食事もしていない。さっきのハンバーガーショップでも、これからの山鰐退治のことが気掛かりで、結局はシェイク一つしか飲んでいなかった。
満足に食べていないことに意識がいったら、急にお腹が減ってきたような気がする。偶然か必然か、私のお腹がギュウと鳴った。
「ははは、やっぱりナナミンも腹減ってんじゃねぇか」
「うるさい」
「確かにここしばらく、何も食べていませんでしたね。ちょっと夜も遅いですけど、夕食にしましょうか」
チカゲちゃんもジュンの提案に乗ってきた。確かに腹が減っては戦はできぬ。
「じゃあコンビニにでも行く? ちょっと遠いけど、ファミレスもあるけど」
「待った待ったナナミン。折角のこのシチュエーションなんだぜ?」
「折角って……何のことよ」
「決まってんじゃん、学校に泊まってるっていうこの状況のことだよ。普段ねぇだろ? 学校に寝泊まりするなんて。まぁアタシは空手部の合宿で学校で寝起きしたことはあるけどな」
ジュンの言うとおり、確かに部活をしていない限り、学校に泊まるなんていることはないだろう。ちなみに私は弓道部にいたけど、学校に泊まったことはない。合宿に参加したことはあったけど、そのときは県のスポーツセンターを使ったのだった。
しかし、学校に泊まる機会がないということについて、ジュンは何が言いたいのだろうか。
「それで、ジュンさんはどうしたいんですか?」
私の疑問をチカゲちゃんが代弁してくれた。
「お泊まり会となったら、決まってんじゃん。キャンプだよ、キャンプ。キャンプってなったらカレーだな。外でカレー作って、みんなで食おうぜ。まぁ外でカレーっていうには若干季節はずれかもしれねぇけどな」
ジュンは腰に手を当てて、自信満々といった様子だ。
え? え!? 学校の敷地内で火を使おうというの!?
ダメよ、そんなの。と私は反射的に反対しようと試みたが、
「キャンプ!? 外でカレー!? 凄いです、やってみたいです!」
と、隣にいたチカゲちゃんが目を輝かせながら、ジュンに賛同したのだった。
「キャンプっていったらカレーだよな。美味しいカレーの作り方知ってんだ。ごちそうしてやるよ」
いや、材料はどうするのよ、というかそれ以前に学校で許可なく火を使っていいわけないじゃない。色々な考えが頭に浮かんだが、私が困惑している内に、あっという間に、キャンプをやるという流れになってしまっていた。
「よし、そうと決まったら善は急げた。準備するから手伝いな」
「ハイ!」
チカゲちゃんの元気な返事が、私の耳にむなしく響いた。