ゆーべの創作ブログ

マンガ、アニメ、ラノベ、その他創作についての徒然日記でやんす

9月7日(金)⑧ 窮地

板張りの廊下を真っ直ぐに進む。柔道場とは丁度東西の反対側に体育倉庫がある。取りあえず体育倉庫に避難しようとして、私は立ち止まった。こんな状況で止まるなんて、危険きわまりない行為かもしれない。でも私にも思うところがあったのだ。

 

 今の私には武器がない。比喩でもなんでもなく、物理的に山鰐に対抗しうる得物がないのだ。確かにチカゲちゃんの持ってきた『最終兵器』を使えば山鰐を倒すことはできるかもしれない。しかし、それがどんなシロモノか分かっていない。つまり不確定要素が大きいのだ。ここは『最終兵器』以外にも、自分だけの武器を手に入れておくのが良策というものだろう。でも確かにその自分だけの武器が山鰐に対抗できるとは思えない。いや、山鰐を倒す決定打になる確率は、米粒ほどしかないだろう。でも、心の拠り所として、そういった道具を持っておくというのはアリだろうとは思う。

 では一体、何を手に入れるのか!? 

 決まっている、元弓道部の私なんだから、弓と矢しかない。一年の頃、弓道は私の全てだった。私と宮本先輩とを繋ぐ唯一のものだったのだ。朝練に始まり、放課後は練習時間が終わっても、居残りで稽古したものだった。色々あって弓道部は辞めてしまったけれど、私の心はまだ弓道にある。

 体育倉庫に向かいかけた足を止め、私は弓道場に向かった。弓道場もこの武道場の中に併設されているのだ。

 私は壁に掛けられている弓を手に取り、大急ぎで弦を張る。次に矢筒から矢を何本か引き抜くとそれをリュックに突っ込んだ。

 ボヤボヤしている暇はない。こうしている間に山鰐がここに来るかもしれないのだ。

 弓道場に出入り口は一つしかない。前方には二十八メートル先に安土が盛ってあるだけだ。ここは袋小路。もし山鰐に襲われたら逃げることはできない。さっさとおいとまするのが一番だろう。

 廊下に出たところで、左手から山鰐が迫ってくるのが見えた。黒水晶のような冷え切った眼で、私を見ている。あぁ、私は『餌』として認識されているんだなと思い、心底ぞっとした。

 私はダッシュで体育倉庫までたどり着き、引き戸を開ける。そして身を滑り込ませると、とって返してドアに飛びついた。もう山鰐は二十メートルほどに迫っている。私は全身の筋肉を総動員して扉を閉める。ガァン! という地鳴りのような音とともに鉄製のドアが大きくひしゃげた。その衝撃で私は壁まで飛ばされてしまった。

 衝撃で一瞬、呼吸が停まる。体がバラバラになったように痛い。

 まるで隕石がぶつかったような状態の扉を尻目に私はそばにあった跳び箱の群れに登り始める。もしこれくらいの高さがあれば、山鰐に襲われても逃げる時間くらいは稼げるはずだ。

 それにしてもチカゲちゃんとジュンは大丈夫だろうか。命に別状はないのだろうけれど、心配になってくる。

 今はチカゲちゃんが持ってきた『最終兵器』を見つけることが先決だ。

 私は背中のリュックを降ろすと、跳び箱の上布に中身をぶちまけた。あぁチカゲちゃん、大事な荷物をこんなにしちゃってご免なさい。後でちゃんと謝るからね。

 錫杖、お札、青色の水晶玉、その他もろもろ。

 さっきのデイバックが日用品が中心だったのに対し、リュックの方は妖怪退治用の道具が主になっているようだった。

 しかし、どれがチカゲちゃんが言っていた『最終兵器』なのか分からない。この非常事態に……。いつ山鰐が扉をぶち破って入ってくるか分からないのに。

 私はマグマのように沸騰する脳を押さえながら、何とか冷静に『最終兵器』を探し続ける。しかし、どこにもそれらしいものは見つけられない。もしかて、さっきのデイバックの方に入っていたのではないか? そして、それを私が見落としてしまったのでは? そんな最悪のシナリオも浮かんできた。私はそんな悪夢のような想像を振り払うように頭を振った。

 不意にガァン! という轟音が鳴り響いて、心臓が停まりそうになる。見ると鉄の扉がさっきより大きくひしゃげていた。間違いない、山鰐がここに入ってこようとしているのだ。もう一度ガァン! という音が響いて、体育倉庫の扉が飴細工のようにひん曲がってしまった。メキメキと金属が擦れ合う、耳障りな音が鼓膜を突く。

 完全に”く”の字に折れ曲がってしまったドアの隙間から、凶暴な顔が見えた。その深海のように黒い瞳を見た私は、腰から力が抜けそうになってしまった。ヤツは完全に私を標的にしたことが分かった。

 もはや完全に本来の役目を果たせなくなった扉をかき分けて、山鰐は体育倉庫内に侵入してきた。

 私は跳び箱の上に散らかった妖怪退治の道具を、急いでリュックの中に詰め込む。あまりの緊急事態で、全部を入れることができなかったが、今はそのことにこだわっているときではない。もし入れ損なったものの中に『最終兵器』があったら完全にアウトだ。

 私は恐怖で動かなくなった足を無理矢理立たせる。そして今いる跳び箱の上から、さらに上に逃げる。

 ふと見ると、山鰐が地獄の釜のような口を開けたところだった。血の色をした口腔が丸見えになる。そのさらに奥から赤黒い触手が三本、伸びてきた。その蛇のような姿容には見覚えがあった。ジュンを苦しめた例の触手だ。ジュンに巻き付いて彼女から精気を吸い取った、三本の邪悪な触手が今度は私を襲ってくるのだ。

 私はガクガク震える膝をなんとか立たせて、逃げの一手を打った。横のボール入れからバスケットボールをつかみ出すと、それを山鰐の顔面に向けて投げつけてやった。

「あっち行きなさいよ! バカ! こっちくんな!」

 茶色のボールは見事に山鰐の鼻先に命中したものの、それで件の妖怪が怯むはずもなく、依然、元気に私に向かってくるのだった。バレーボール、鉄アレイ、カラーコーン。私はもう、手当たり次第にそこら中にあるものを山鰐に投げつけてやった。しかしながら、私の必死の抵抗もむなしく、山鰐は蚊に刺されたほどにも感じていないようだった。

 山鰐の口から伸びてきた三匹の蛇は、ズル……ズル……と地面を這うように私の足下に近づいてくる。黒と赤のマダラ模様の触手は左足のくるぶしを越え、足首を越え、ふくらはぎまで到達しようとしていた。もう一本の触手は右足に巻き付くように、太もも、腰と上ってくる。ぬらぬらとした光沢が気持ち悪い。残った最後の一本も左の腰のくびれから、まるでたすき掛けをするように右肩に向かってくる。三本目の触手がその鎌首を持ち上げる。その先端がまるで爬虫類の口のように開くのが見えた。その赤い口の中に、牙のようなものが二本生えているのが目に入った。そうだ、この牙で食いつかれて、ジュンは精気を抜かれたのだ。私もジュンのようにやられてしまうのだろうか。私も山鰐に屈してしまったら、どうなるのだろうか。

 もちろん文化祭を開くことはできない。それも開校八十周年という記念すべき年に開かれる文化祭を、だ。宮本先輩、悲しむだろうなー。二年の私を文化祭実行委員長に任命して、期待してくれていたのに。

 カケルには悪いことしたな。「お姉ちゃんにまかせて」なんて思いっきり期待させるようなこと言っちゃって。あんな大見得切っといて、この有様だよ。

 アカリには合わせる顔がないな。折角敵討ちに来たのに、返り討ちにあっちゃった。

 蛇が真っ赤な口を開けて、私の胸を這い上がってくるのが見える。もうすぐ、もうすぐだ。蛇はその黒い縄のような体を私の全身に巻き付けるだろう。そして私の精気を最後の一滴まで絞り尽くすだろう。

 私の思考を裏付けるように、三匹の蛇の侵略は、はもはや私の全身に及ぼうとしていた。足首、太もも、腰、腕、胸、全身のありとあらゆる所に蛇が巻き付いている。

 さっさとトドメを刺せばいいのに。なぜそうしないのか。あぁそうか。弄んでいるんだ。最後の獲物だから、たっぷりといたぶってから食おうというのだろう。

 私はもうダメだ。ここで山鰐に精気を抜かれて朽ち果ててしまうんだ。そして、文化祭を中止に追い込んだ戦犯として、菊川高校の歴史に名を刻んでしまうんだ。

 ………………。

 …………。

 ……。

 何いってんの? 馬鹿じゃないの? 

 もうダメだ!? だから何よ。私は最後まであがいて見せたの? 

 文化祭を中止に追い込んだ戦犯? 確かにそうなるでしょうね。このまま山鰐にやられちゃえば。でもね。私は自分にできることをやりきったかしら? やれることもやっていないのに、悲劇のヒロイン気取り? ホント臍が茶を沸かすわ。

 絶望するのは簡単よ。だって絶望したらもう何もしなくていいもの。川に落ちた葉っぱのように、後は流されるまま。楽なものよ。

 でもね、それでいいのかしら? この状況を受け入れていいの? 山鰐なんていう訳の分からない怪物にいいようにされて。文化祭も滅茶苦茶にされて、沢山の人が傷つけられて。

――良いわけねぇだろ! 

 急に頭の中が沸騰したような気がする。確かに山鰐にも事情があるだろう。食べなければ生きていけない。人間を襲わなければ、精気を吸わなければ生きていけない。妖怪の生態はよく分からないけれど、山鰐には山鰐なりに人間を襲う理由というものがあるのだろう。

 ライオンがシマウマを襲うのと同じだ。

 シャチがアシカを襲うのと同じだ。

 自然の摂理というやつだ。

 だからといって、それにおとなしくしたがってあげる理由なんて無いはずだ。シマウマにはシマウマの、アシカにはアシカの、人間には人間の、生きなければ鳴らない事情というものがあるのだ。食物連鎖? 自然の摂理? クソ食らえよ。

 ちなみにライオンの狩りの成功率は三割くらいで、それほど高くないのだとか。それに加えて、狩りの際に獲物となるシマウマやヌーから思わぬ反撃を受けてケガをすることもあるのらしい。ときにはそのケガが元になって死ぬこともあるのだそうな。