9月7日(金)② 真夜中の訪問者
窓の外に写る正体不明の光、謎の明滅。
これは『目』だ。
誰かの目なのだ。
誰かがずっと私たち三人のことをずっと見ていたのだ。ずっと観察していたのだ。
いつから、私たちが寝静まってから? いやもっと前からかもしれない。
夕飯にカレーを作っているとき?
体育倉庫に忍び込んだとき?
私たちを観察するなんて、一体誰がそんなことをするのか?
決まっている、山鰐だ。
正面入り口の上の窓から、例の光が見える。不規則に点滅する。これは瞬きだ。この光は目なのだ。そのことに思いいたったとき、私の体に背骨に氷を詰め込まれたような悪寒が走った。
「グルルル……」
窓の外で猛獣が唸るような声が聞こえてきた。
「おいチカゲよう……」
ジュンが半分泣きそうな声でチカゲちゃんを呼んだ。退魔師の少女は、相変わらず戦闘態勢を崩していない。
「なんかさ、昨日見たときより、デカくなってね?」
ジュンの言うとおりだった。確かに山鰐の体長は昨日グラウンドで見た限りじゃあ三~四メートル、普通のクルマより少し大きいといった所だった。
しかし、窓越しにみた目の大きさから考えたら、今現在の大きさは七~八メートル近くある。
「おそらく、昨日とりこんだ精気のおかげで、あんなに大きくなったのでしょう」
チカゲちゃんが私とジュンの疑問に答えてくれた。
昨日襲われた生徒の数は二十人は下るまい。
「それだけの人数、しかも皆さん若くて健康でいらっしゃった。山鰐も十分に栄養を取り込んだでしょうね」
なるほど、妖怪が人間の精気を吸い取るとき、対象が若ければ若いほど良いのか。
しかし、今はそんな豆知識が増えたことに感心している場合ではない。喫緊の問題として、この武道場の扉を破られようとしているのだった。
「しかし、私としたことが迂闊でした……」
札を構えたまま、チカゲちゃんの顔が歪んだ。
「多くの人間の精気を吸ったことで、山鰐が巨大化することは予測していました。しかし、まさかここまで大きくなるとは……」
チカゲちゃんの顔に、悔恨とも後悔ともとれる表情が浮かんでいた。
次の瞬間、武道場が揺れた。まるで地震にあったかのようだった。
「うぉあっ! 一体なんだ!」
山鰐が武道場に体当たりしてきたのだ。ガラスがビリビリと揺れ、天井からホコリがパラパラと落ちてきた。
邪悪な山鰐の攻撃が始まったのだ。
「お二人とも大丈夫です! この周りには結界を張ってあります。ちょっとやそっとじゃ破ることはできません」
またもや大きな振動。今度は壁から掛け軸が落ちて、積み上げてあった畳が崩れた。これは……。
「おい、こりゃあちょっとやそっとって言える力じゃあねえぞ」
ジュンが叫ぶようにいった。
「風月丸!」
チカゲちゃんが黒衣の式神を呼び出した。例のごとく、風月丸がチカゲちゃんの陰から飛び出してきた。
気づいたら、ジュンもチカゲちゃんから貰った経文入りのグローブをはめていた。
私たち三人は、一様に出入り口の方を注視していた。
横でジュンがゴクリと唾を飲み込んだのが分かった。緊張のためかチカゲちゃんが額の汗を手の甲で拭うのが見えた。
それからどれくらい時間が流れただろうか。
「もう妖気を感じられなくなりました。山鰐は引き上げたみたいです」
言い終わるやいなや、チカゲちゃんは構えを解いて、ちいさくふぅと息をついた。
「しかし油断はできません、山鰐はいつ戻ってくるか分かりませんから」
とチカゲちゃんは釘を刺してくる。
「おそらくは私たちの様子を見に来たのでしょう。一体どんな連中が自分を狩りにきたのか」
「偵察ってことかよ。随分頭がまわるヤツなんだな」
「とにかく、まだ油断できません。陽が昇るまで警戒を怠らないようにしましょう。風月丸、この建物の屋上に上って、周りを警戒しておいて」
風月丸はよく見ないと分からないほどに小さくうなずくと、黒マントに覆われた体を糸のように細め、窓の僅かな隙間から外に出ていった。
「とにかく、山鰐の再度の襲撃が心配です。一応、風月丸に外を警戒させていますが、それでも万全とは言えません」
「じゃあどうすんだよ」
「私たちでも警戒しておきましょう」
チカゲちゃんの提案に、私とジュンは「どうやって?」と声をハモらせて訊いた。
「私が正面玄関と東側を見張ります。ナナミさんは北側、ジュンさんは西側を見張っててください」
なぜチカゲちゃんだけが二方向と思ったが、彼女は専門の退魔師だったのだ。二方向に目を光らせるというマルチタスクも、慣れているのかもしれない。
それから私たち三人は、外が明るくなるまでずっと起きていた。眠ることなんてできなかった。いつ山鰐が襲ってくるか分からないからだ。しかし、これで分かった気がする。これは『狩り』なのだ。私たちと山鰐との狩りだ。お互いの生存をかけたサバイバルだ。よし、そうとなったら俄然気合いが入ってきた。私は道場を出たところにある自販機でコーヒーを買うと、それをジュンとチカゲちゃんに渡した。
「なんだこれ? ナナミンおごってくれんの?」
「ナナミさん……」
「二人とも、これで目を覚まして、朝まで長いかもしれないけど、がんばりましょう」
二人とも無言でプルタブを開ける。言葉は無かったけれど、肯定の意ととらえてもいいだろう。
それから私、ジュン、チカゲちゃんの三人はまるで乾杯をするかのように缶を打ちつけあった。
それから私たちは、何もしゃべらなかった。ほんの数時間前にはうるさいくらいに話していたというのに。不思議なくらいに無言だった。
さっきの山鰐の襲撃がそれほどショックだったのだろう。チカゲちゃんは妖怪退治に慣れているから良いのかもしれないが、私とジュンは違った。いつも強がっていても、そこはやはり素人だったということだろう。
時間は四時。もうすぐ陽が昇る。窓の外から見える風景は、さっきまで夜の闇に閉ざされ、よく見えなかった。しかし、景色にだんだんと青みがかってきて、少しずつ見えるようになってきた。
夜明け前が一番冷え込む、というのは本当だった。私たちは誰が言い出したのでもなく、さっきまで被っていた布団を持ち出して、それにくるまっていた。
布団をまるで半纏のように着ながら、周りを警戒する女子高生たち。端から見たら吹き出してしまいそうなシュールな光景だろう。しかし、私たちは真剣そのものだ。
六時になった。
ジュンが立ち上がった。トイレかなと思ったが違うようだ。彼女は不意に「飯にしねぇか?」とのたまったのだった。今まで私たちはトイレ以外の用事では特段、移動たりはしなかった。
お互いに布団にくるまって、周りを警戒しているだけだったのだ。
また山鰐が襲ってくるかも……と思ったが、チカゲちゃんも「そうですね。昨日から気を張りっぱなしで、お腹が減りましたし」と賛成の意を示したのだった。
確かに、夜中の二時半から起きっぱなしだった。そのせいか、頭がぼーっとして眠い。よくよく考えたら、今晩は二時間くらいしか寝ていないのだ。ほぼ徹夜だ。夜、ずっと起きているのなんて、どれくらいぶりだろうか。いつだったか、アカリの家に泊まりに行ったとき以来じゃあないかしら。
ジュンは道場の片隅に置いてあった、スーパーの袋から、カップめんのを取り出した。昨日、カレーの材料を買い出しに行ったときに、ついでに買ったヤツだ。
私はシーフード味を選び、チカゲちゃんはレギュラーを選んだ。なおジュンが選んだのはカレー味だった。つくづくカレーが好きな娘だ。
体育教官室でお湯を沸かし、カップに注ぐ。三分待つ間に、私は周囲を見渡す。
いつもは体育の先生たちが詰めている教官室も、当然ながら今は誰もいない。怖い体育教師たちがいない教官室で、こうやってのんびりとカップめんができあがるのを待っているのは変な気がした。
「もうそろそろいいだろ」
ジュンがカレー味のカップを取り上げ、お箸で中身をかき混ぜ始めた。待ちきれないのか、それともこれが彼女のいつも通りの食べ方なのか。見もしデフォルトなのだとしたら、見かけどおり、せっかちな性格なのだな。
私たちは車座になって、カップめんをすすり始めた。ズズッ、ズズッという乾いた音が体育教官室に響く。
チカゲちゃんの目の下には、深いクマが刻まれている。ジュンも同じように、目の下が黒くなっている。
「ナナミン、目の下のクマがすげーぞ」
どうやら私も似たり寄ったりのものらしい。
……。
……。
……。
沈黙が私たちの間に横たわっている。気まずい……。何か話題はないだろうか。そうだ。
「今日、これから山鰐退治をするわけなんだけど、どうやって退治するか具体策はあるのかしら?」
「その辺は任せておいてください」
チカゲちゃんは明らかに寝不足の顔ながらも、胸を張る。
「昨夜は山鰐に好き放題されましたからね。ここからは私たちの反撃ですよ」
どんな策を考えてくれているるのだろうか。