9月7日(金)⑤ 撤退
チカゲちゃんだった。チカゲちゃんのその意外な一言に、私とジュンは同時に退魔師の少女に視線を向ける。
「おいチカゲ、今、策があるって言ったのか?」
「あるとは言ってません。ないこともないと言ったんです」
「どんな策なの?」
私は問うた。
「これです」
チカゲちゃんは後部座席に積んであった、包み紙を手にした。
「それって、さっきまでアタシとナナミンで撒いてた結界石じゃねーか」
「これをこのクルマからできるだけ遠くまで投げます」
「投げるの? 体力テストの遠投みたいに?」
「そうです、先ほど言ったように、この結界石は妖怪をおびき寄せる効力を持っています。一粒一粒でもそれなりの効果がありますが、これだけの量があれば、山鰐は妖怪の本能に従って、これを追いかけざるを得なくなります」
「なーるほどね、サメ公がそれに気を取られている隙に、アタシたちはまんまと逃げおおせようってワケだ」
確かにそれは妙案だ。しかし……。
「じゃあどこに逃げるの?」
「あそこです」
チカゲちゃんがたおやかな指でさししめしたのは、昨夜、私たちが泊まった施設ーーすなわち武道場だった。
「あぁッ!? またあそこに戻るのかよ!?」
ジュンがあからさまに疑問を口にした。でもジュンのこの反応はわからなくもない。今更武道場に戻ったって、根本的な事態の収拾にはならないと思えるからだ。
「実は武道場に、秘密兵器を置いてきたんです」
「秘密兵器?」
私は思わず声が裏返ってしまった。
「そう、この山鰐退治の最終兵器として持ってきた道具があるんです。それをつい武道場に置いてきてしまって……」
「なるほど、それを取りに行こうってワケか。でもよ」
ジュンに何か疑問があるようだ。
「なんでそれを最初から使わなかったんだよ?」
ジュンが非難めいた口調で訊く。確かにジュンの気持ちは分からなくもない。そんな便利なモノがあるのなら、最初から使ってほしかった。
「アレは武器はコントロールが難しいんです。熟練の退魔師でも取り扱いには細心の注意を払います。ましてや私のような駆け出しでは……。だからできれば使いたくはないんです」
そう言ってチカゲちゃんは俯いた。
「でももうそんなことを言っていられる余裕はありません。アレを使うときが来たんです」
「腹ぁくくったみたいだな、チカゲ。よし、じゃあ作戦開始だ」
ジュンはコキッと指を鳴らすと、結界石(黄)の入った包み紙をつかんだ。
それから私たちは場所を移動することにした。
「狭いクルマの中よりも、外に出た方がいいんじゃねーの?」というジュンの意見を採用した形だ。
それから私たちはクルマの外に出る……のだが、ただ単にグラウンドに降りるだけではいけない。山鰐の餌食になるだけだからだ。なのでクルマの窓を開けて、そこから直接、屋根に登ることにした。
最初にジュンが上がって、それからチカゲちゃん、私の順で引き上げてもらう。しかし、ここ一週間で本当に変なことばかり経験している気がする。怪物に襲われるわ、学校に泊まり込みで妖怪退治をするハメになるわ。クルマの屋根に登るなんて、予想もしなかったわ。
「私がタイミング測ります。合図したら結界石を思い切り投げてください」
ジュンがコクリと頷いた。
私たち三人がいるのはワンボックスの屋根の上。さっきまでジュンが餌撒きに使っていたポジションだ。ジュンは野球選手のように右肩をグルグルと回す。
「私が合図したら、この方角に思いっきり投げてください」
チカゲちゃんはグラウンドから南西の方角を指さす。それからチカゲちゃんは包み紙をジュンに渡した。
「じゃあチカゲ、合図頼むぜ」
チカゲちゃんは目を閉じる。山鰐がどこにいるか、妖気を探っているのだろう。精神を集中させている。
「まだですよ」
ジリジリと焼けるような時間が過ぎていく。今日も九月にしては暖かい陽気だ。額に汗がにじんでくる。
「今です!」
チカゲちゃんが、その細い肢体からは想像もできないような鋭い声を出した。
「うぉりゃー!!」
獣のような叫び声とともに、ジュンが結界石入りの包み紙を投げる。包み紙はきれいな弧を描き、南西の方角へ飛んでいく。こんな包み紙でこんなに飛ぶんだったら、ソフトボールだったらどれくらいの距離が出るんだろうと思った。
おっと、今はそんなことを考えている場合じゃあない。
「チカゲちゃん! 山鰐はどうなったの!?」
「待ってください。……良かった、あの包み紙に向かっています」
その言葉を裏付けるように、チカゲちゃんが指さした先の地面が、ボンと煙を吐いた。どうやら作戦の第一段階は成功したようだ。
「行きましょう!」
チカゲちゃんのそのかけ声とともに、私たちはワンボックスから飛び降り、武道場に向かって駆けだす。直線距離で二百メートルぐらいだろうか。かなりの距離だ。
足が震えて前に出ない。踏ん張ろうと思っても力が入らない。つい最近、これと似たような感覚になったことを思い出す。ああ、そうだ。旧校舎で山鰐に追いかけられたときだ。あのとき、ライオンに追いかけられるシマウマの気持ちを味わったのだった。
何度も足がもつれそうになりながらも、私は必死に前に進む。
そのとき、私の前を走っていたチカゲちゃんが、悲鳴に近い叫び声を上げた。
「まずい! 山鰐が戻ってきます!」
え!? どうして!? ヤツは餌に向かったんじゃあないの!?
「おそらく陽動だと気づかれたんでしょうね。それとも最初からバレていて、引っかかったフリをしていたか」
そんな!
「いけない、真っ直ぐに私たちにむかってきています。この速さでは追いつかれます」