9月7日(金)⑥ 囮
してはいけないと思いつつ、後ろを振り返ってしまう。何かに追われているとき、振り返るという行為は最悪の悪手だ、話しをどこかで聞いた。しかし、自分を追ってきているものが、どれだけの距離にいるのかを知りたいと思うのは、生物としての本能ではないだろうか。
振り返った私の目に恐ろしい光景が入ってきた。ドンッ! という音とともに地面が破裂したのだ。続いて第二、第三の破裂音。間違いない、山鰐が追ってきているのだ。
私は恐怖のために、その場にへたりこみそうになった。しかし、最後の理性を振り絞って足を前に出し続ける。
「やべぇ! このままじゃ追いつかれちまうぜ!」
先頭をゆくジュンが叫んだ。
確かにジュンの言うとおりだ。武道場まではどれだけ見積もっても百メートルはある。そして山鰐は今にも私の足首に食いつかんとする距離にいる。どんなに頑張っても追いつかれるのは必至だ。
そのときだった。
「私がくい止めます」
私の目の前を走っていたチカゲちゃんが急に身を翻して止まったのだ。
チカゲちゃんを追い越しながら、首だけで彼女の姿を追う。突然のことに虚をつかれたのか、山鰐ですらチカゲちゃんを追い抜いてしまった。しかし、空飛ぶサメはすぐにUターンして、チカゲちゃんに向かった。
黄土色の地面から姿を現す山鰐。その風貌は昨日見たときよりも、さらに禍々しいものになっているようにも見えた。
「……風月丸」
自分の式神を呼び出すチカゲちゃん。その求めに応じて、地面からわき出るように現れる風月丸。
腰のポーチから錫杖を取り出すチカゲちゃん。シャキン! という金属音とともに錫杖を伸ばすと、それを山鰐に向かって構えた。
「お二人は先に行ってください!」
チカゲちゃんの言葉を背中で聞きながら、私とジュンは走り続ける。
しばらくすると、なにか固いもの同士がぶつかる音や、金属が擦れるような音が聞こえてきた。チカゲちゃん、風月丸のコンビと山鰐が戦っているのだろう。
もしかしたら、私はこのとき、振り返るべきだったのかもしれない。そして、私とジュンのために身を挺してこの場に残ってくれたチカゲちゃんに報いるべきだったのかもしれないし、実際に私はそうしたかった。
しかし、それはチカゲちゃんの望んだことではない。チカゲちゃんがこの場に残ったのは、山鰐を足止めするためだ。そして私とジュンを無事に武道場までたどり着かせるため。だからもし、私までが残ってしまったのら、チカゲちゃんの厚意を無駄にすることになってしまう。それだけは絶対に避けなければならないことだ。
右手に東校舎が見える。職員室の他、音楽室や美術室といった特別教室が入っている校舎だ。まさか自分が慣れ親しんだ学校で、空飛ぶサメに追いかけ回されるハメになるとは。
武道場までは、あと五十メートルほど。普通に逃げると山鰐捕まってしまうかもしれないけれど、チカゲちゃんが足止めしてくれている今なら、何とか無事にたどりつけるかもしれない。
そのとき、私の背後でまたもや、どん! という爆発音が聞こえた。走りながら、ちらりと横目で見ると、チカゲちゃんが食い止めてくれているはずのはずの山鰐が、俄然元気に私たちを追いかけてきているではないか。
私は思わず、腰が抜けそうになってしまった。
「ナナミン! 前だけを見るんだ!」
前方を走るジュンが叫んだ。このジュンの声がなければ、私は脱力してその場でへたり込んでいたかもしれない。そして、山鰐の餌食になっていたかもしれなかった。
なんということだろうか、チカゲちゃんと風月丸は足止めに失敗したらしい。
チカゲちゃんはどうなったのだろうか!? 無事なのだろうか!? それとも……。さっき振り返ったときには確認できなかった。ほんの一瞬だったし、砂煙がもうもうと立ち上っていて、視界が遮られていたからだ。
チカゲちゃんの安否は気になる。しかし、それ以前に自分たちの身の安全も心配だ。なにしろ、俄然元気に山鰐は私たちを追いかけてきているのだから。そして、今確実にひとついえることがある。それはこのまま逃げても、あと十秒後には確実に追いつかれるという事だ。まさしくジリ貧というやつだ。どうする?
「ナナミン、校舎の中に逃げるぞ!」
前を走るジュンが叫んだ。
「校舎? そんなことしたら、よけい武道場からは遠くなっちゃうわよ!」
「いいからついて来な!」
そう言ってジュンは進行方向を四十度ほど右に向けた。明らかに武道場とは違う方向だ。
私は半分混乱した頭で、黒いジャージを着た背中を追った。
力の抜けそうな足でなんとか階段を上り、何とか中庭にたどり着く。ジュンは中庭を突っ切らず、校舎の壁沿いに走る。なぜそんな事を? と一瞬思ったが、その疑問はすぐに解消された。中庭の周りには雨除けのために屋根が取り付けてあって、それを支えるために柱が並んでいる。ジュンはその柱と柱の間を、チーターのように軽やかに抜けていく。私もそれに続く。
当然、山鰐も追いかけてきているはずなのだが、バスほどの巨体が柱につかえてしまって、うまく進めないようだった。もしかしてジュンはこれを狙っていたのだろうか。
山鰐が柱に絡まっている隙に、私とジュンは樹の陰に隠れた。ここならしばらく時間を稼げるはずだ。久しぶりの休息にほっと息をつく。どれくらいの時間走っていただろうか。一分? 二分くらいだろうか。五分は走っていないはずだ。しかし、わずかな時間のはずだが、一時間くらい逃げ回っていたような気がする。
「取りあえず一休みだな」
私の横で汗を拭いながら、ジュンが言う。
「武道場に行くのを諦めて、中庭に逃げたのはナイス判断だったわね。よく思いついたわね」
「なぁに、校舎の中だと障害物も多いし、あのサメ野郎の図体なら動きづらいだろうなって思っただけさ。それに学校の中なら、アタシたちのほうが土地勘があるしな」
結構タクティカルに考えてたのね……。
「ようし、じゃあ次の一手を打つか」
ジュンはジャージの袖をまくって、腕を回した。今度は何をする気なの?
「これであのサメを撒いたとはいえねぇ。校舎の中を伝って逃げるぜ」
「校舎の中って、入り口に鍵がかかってるわよ」
「そんなの壊すに決まってるじゃん」
やっぱり……。
校舎の入口が見えてきた。両開きのガラスのドアだ。ジュンは太股の筋肉が切れるかと思うほど、右足を大きく上げて――ドアのノブに踵を打ち下ろした。いわゆる踵落としと言われている技だ。
メキッという嫌な音とともに、ドアノブが弾け飛んだ。すごい破壊力だと思った。これが人間の頭だったら……。
本来ならこんな蛮行、上級生として真っ先に止めるべきなんだろうな。しかも私は文化祭実行委員長だ、本当なら生徒会の一員として、生徒の見本となるべき立場だ。
しかし、今の状況ではそんなことを言っていられない。
「よし、開いたぜ!」
言うが早いか、ジュンは校舎の中に飛び込んでいた。一階の廊下を一直線に走り抜ける。廊下には文化祭の飾り付けがそこかしこになされていた。微妙に怖くなさそうなお化け屋敷の垂れ幕。アニメチックなキャラが描かれているメイド喫茶の看板。
私とジュンはそれらをかき分けて廊下を疾駆する。
急に視界が開ける。校舎の端にある、ラウンジについたのだ。二百人の学生を収容できるホール。白を基調とした調度品。規則正しく並べられたテーブルとイス。モダンで洗練された、我が校自慢の設備だ。県立高校で、こんなに整った施設を作っていいのかと後ろめたい気になることもある。
後ろを確認するが、山鰐は追ってきていないようだ。やはりあんなに大きな体で、校舎の中を移動するのには無理があったようだ。取りあえずほっと一息をつく。
「ここを抜けていくぜ」
ジュンが肩で息をしながら言った。
確かにジュンが言うとおりに、ここを抜ければ目指す武道場は近い。あのままグラウンドを逃げていたら、間違いなく山鰐に捕まっていた。一端校舎に入って、建物の中を移動する方が時間はかかるものの、結果としては一番安全だったのだろう。しかし、それをこの短時間で、しかも山鰐に追われながら思考できたこの相馬ジュンという少女、ただ者ではない。私は今まで、ジュンをただの無法者だと思っていた。しかし、今その認識を改めなければならないのかもしれない。