9月7日(金)⑭ 風月丸vs山鰐
私は二本目の矢を手に取った。
さっきと同じように、両足を肩幅より気持ち広くとる。五秒かけて息を吸い、同じ時間をかけて息を吐く。
「ナナミン! 落ち着け! 肩の力を抜け!」
外野からジュンの激励(?)の声が飛んでくる。気合いを入れてくれようとするのはありがたい。しかし、その声も集中した私の耳には届かなくなる。
弓を構えて、矢をつがえる。もちろん矢の先端には結界石(白)を結びつけてある。弓道では一本目に射る矢を甲矢、二本目を乙矢という。今は別に試合じゃあないのだから、ルールに従って射る必要はないのだけれど、弓道部にいたときの癖だろうか。なんとなく決まり通りにしなければ気持ちが悪い。
呼吸を整え、狙いを絞る。それから打ち起こし。両手を頭の上に持ち上げる。キリキリと弦が鳴った。そういえば随分と強く弦を張ってしまった。慌てていたからな。張力が弱かったら、矢が飛びにくいので強くしたのだった。しかし余り強く張ってしまうと、今度は逆に弓を引けなくなる。今日のは丁度いいバランスだったようだ。久しぶりに弦を張ったのに上手くいったのは僥倖だった。
グラウンドでは風月丸と山鰐が睨み合っていた。これで都合三度目の対決だ。しかし、山鰐は一度目の戦いより体が大きくなっている。そのせいで二回目の勝負では風月丸は完敗を喫してしまった。今回の戦闘も風月丸にとっては厳しいものになるのではなかろうか。
『大丈夫ですよナナミさん』
不意に端末からチカゲちゃんの声が聞こえた。
『風月丸には山鰐の気を引くようにと言ってあります。勝ち負けは二の次です』
なるほど、風月丸は山鰐の注意を引く役割に徹してくれるというわけか。
『射る直前に合図してください。風月丸をどかせますので』
端末に向かって「了解」と短く返事する。確かに爆発に巻き込まれたら風月丸といえどもひとたまりもないのだろう。
もう一度、大きく息を吸い込み、そして吐く。弓の背で、狙いをつける。落ち着け、中て気にはやっちゃあ駄目だ。中てようとすればするほど、中たらなくなる。宮本先輩からそう教わったじゃあないか。
目の前では風月丸と山鰐がもみくちゃになって戦っている。その激しい戦闘を見ても、私の心は不思議と落ち着いている。
「チカゲちゃん、風月丸を逃がして」
『分かりました』
チカゲちゃんが返事をして数秒後、風月丸は、猫のように山鰐の前から飛びのいた。
グラウンド上の山鰐に照準を合わせる。
中てる。
いや中て気を出すな。
でも中てなければならない。
だから中て気を出しちゃ駄目だってば。
もう一度、弓の背で照準を定める。
そして右手を弦から離す。
ひゅっという軽い音がしたと思ったら、矢は風を切りながら山鰐に向かって飛んでいく。今度は手応えがあった。矢はまるでハヤブサのように山鰐の口に向かっている。中った。確信があった。
しかし、矢は目標からはわずかに逸れ、山鰐の顎のあたりに命中した。 外れた……。
いつか三射連続で中てたときと同じ手応えがあったのに……。この半年というブランクは長かったのだろうか。
『ナナミーン!』
不意に端末からがなるような声が聞こえた。
『気落ちしてんなよ! まだ残りの矢があるんだろ!? 気持ちを切り替えて次に集中しろ!』
励ましているのかいないのか分からない声援だった。
しかし、確かにジュンの言う通りだ。外してしまったという事実は変えることはできない。
一回目のと違って、二回目の射は結界石(白)の重みや風の影響を計算に入れていた。しかし、それでも外してしまった。やはり私には弓の才能がないのだ。
これが宮本先輩なら苦もなく中てていたのだろうが……。くそっこんな事なら、弓道部にいたころ、もっと練習しておくんだった。
しかし、今さら後悔してもしょうがない。私は今できることに全力を注がなければならないのだ。
どうやって山鰐の口の中の結界石(紫)に矢を中てるか?
技術は今この場で急に上がるはずがない。だとしたら……。覚悟だ。必ず中てるという覚悟を決めなければならない。でもさっきの二射だって必ず中てるという気持ちで射たものだ。だから今度は、もっと強い覚悟が必要だ。中てなければ命がない、という暗いの気持ちで。ならどうするか……。
『ナナミさん! 気をつけてください!』
突然端末から、チカゲちゃんの叫ぶような声が聞こえた。
『山鰐がそっちに向かいました!』
見るとグラウンドの西側から、山鰐が私のいる体育倉庫に真っ直ぐに向かってくる。
何かヤバい気がする。
件の山鰐は、まるで弾丸のように直進してくる。
『ナナミン! サメの奴は体当たりする気だぞ!』
あまりに大きな声だったので、端末と同時に直接に聞こえてきた。
このままじゃあ、ぶつかる。そう確信した私は、屋根にかがんで、衝突に備える。
屋根の出っ張りをしっかりとつかみ、屋根に寝ころぶ。傍目から見たらワカメの天日干しのように見えるはずだ。とにかく屋根から落ちないように注意しないと。もし落ちてしまうと、山鰐の餌食になるだけではない。地面までの高さは優に二メートルはあるだろう。そんな高さから落ちたら、単純に大ケガをしてしまう。
次の瞬間――。
まるで隕石でも落ちたかのような轟音、そして地面の揺れ。
比喩でも何でもなく、私の体は屋根から三十センチほど浮き上がった。その際に胸をしたたかに打ちつけて、一瞬呼吸が止まる。
「ゲホッ。やってくれるわね……」
舞い上がる土煙の中、私は一人で毒づいた。
私の視界二メートル下で、火のように真っ赤な口が開いた。
「きゃっ!」
続いて背筋が凍るような咆哮。腰が抜けそうになるが、なんとかこらえる。こんな所で負けてはいられない。
山鰐がぶち当たったために、鉄製の戸がひん曲がってしまった。誰が修理すると思ってんのよ。くそっ。
正体不明のサメに、学校の備品を壊されたことに腹を立てていると、土煙の中から風月丸が飛び出てきて、山鰐に体当たりした。
山鰐は横から闖入者が入ってくるとは予想していなかったのか、狼狽したような様子を見せた。しかし、体格の差か、大きなダメージを受けてはいないようだ。すぐに体勢を立て直し、その大きな尻尾を振り回す。風月丸も風月丸で、山鰐の尾による攻撃を紙一重でかわす。
業を煮やしたのか、山鰐はその悪魔のような大口を開けて、式神に食いつこうとする。けれども、風月丸はまるでフィギュアスケートの選手のような軽い身のこなしで山鰐の攻撃をいなしてゆく。
先日、グラウンドで戦ったときはあっさりとやられたように見えたんだけど、今日はどうしたのだろうか。やはりチカゲちゃんの命令で、注意を引くことを重視しているからだろうか。だとしたらオフェンスよりもディフェンスに気をかけているのだろう。
風月丸が山鰐の背中に飛び乗った。山鰐は自分の背後を取られたことに焦ったのか、跳ねるようにもがく。その一方で風月丸は振り落とされないように背びれにしがみついている。その様子はまるでロデオを見ているようだった。
二体はもつれ合いながら、グラウンドを縦横無尽に駆け回る。
よし、この隙に地面に降りよう。
『ナナミさん! そこから逃げてください!』
端末から、チカゲちゃんのがなるような声が響いた。
『一度引いて作戦を練りましょう! まだ間に合います!』
駄目だ。ここでケリをつけなければならない。根拠はない。でも私の本能がそう言っている。
「駄目よチカゲちゃん。ここで決着をつけなきゃ」
『でも……』
「じゃあ今の時点で、何かいいアイディアがある?」
『……』
チカゲちゃんは答えない。
「私は今自分ができることに全力を尽くしたいの、分かって。そして自分ができることっていうのは、矢を射ることだけ」
一瞬の間があって、
『……分かりましたナナミさん。ご武運を。でも決して無茶はしないでください』
矢は残り一手、つまり二本。これを必ず中てなければならない。
とりあえず地面に降りなければ。リュックを背負い、弓を肩にかける。
雨どいに足をかけ、下り始める。コンクリートの地面に降り立ってすぐに体育倉庫の中に駆け込んだ。準備しなければならないモノがあるからだ。
倉庫の中には、さっき私が脱出したときと同じ光景が広がっている。当たり前と言えば当たり前か。
まるで台風が通り過ぎた後のように破壊し尽くされていた。仮に山鰐騒動が解決したあとでも、ここを片付ける手間のことを考えると頭が痛んだ。
しかし、今は未来のことを考えている余裕はない。現在も現在でかなり逼迫した状況なのだから。私は目当てのモノを探し始める。
確かアレは、前に見たんだけど……あった。
灰色の壁に、ひっそりと立てかけてある銀色の物体。それは伸縮性のハシゴだった。私はガレキの中からそれを引っ張り出した。女の私の力で持ち出せるか心配だったが、幸いにもそのハシゴは軽い素材でできているのか、私でも簡単に持ち上げることができた。
外にハシゴを持ち出した私は、それを屋根に立てかける。これから私は山鰐を撃つ。もしそれが失敗した場合、迅速に逃げるための準備だ。
用意が終わったら、私は山鰐の場所を確認する。
端末を取り出し、ディスプレイを凝視する。画面上のある地点に光が点滅している。それが山鰐の現在位置だ。奴は体育倉庫、すなわち私の現在位置から見て、西向き百五十メートルの場所にいる。それを裏付けるかのように、グラウンドの西側のある地点から煙が吹き出した。あそこに風月丸と山鰐がいる。
私は矢を射るのに適切なポジションを探す。
風の影響を受けない場所がいい。それと、もししくじった場合、逃げやすい場所。矢を外したときに、一目散にハシゴを上って体育倉庫の屋根に逃げることができる所。