9月7日(金)⑮ 乙矢
体育倉庫と西校舎の間。丁度中庭へと続く道。そこに陣取ることにした。
校舎の入り口では、ジュンとチカゲちゃんが心配そうな顔をしていた。二人とも疲労からか、階段に腰を下ろしていた。
「ナナミさん……」
「ナナミン……」
そんなに心配そうな顔をしないで。ちゃんと中てるから。これで全ての事件は解決よ。
私はピッチャーがマウンドを確認するかのように、地面を踏みならす。靴でグラウンドに印を付ける。ここが私のポジション。晴れ。上空には青空が広がっている。風はない。
端末で山鰐の位置を確認する。山鰐はさっきの位置からは移動している。今は真北百二十メートルの場所。丁度私の真正面だ。
私は射の準備に入る。
結界石(白)を矢尻にあてがい、ゴム紐で結びつける。結界石(白)の重さによる軌道の変化は、さっきの二射で確認済みだ。
甲矢を脇に構える。足を広げ、体から余計な力を抜く。足の角度は六十度。
弓を目の前に起こす。弦の張り具合いを確かめる。うん、大丈夫。さっき派手に動いたけれど、特に問題はないようだ。
左手の人差し指と中指で矢を挟む。指伝いにスルスルと矢を滑らせる。
羽根の後ろにある筈を弦に引っかける。弓の下端を左膝に置く。
重心を体の真ん中に構える。弦の位置と矢の方向を確認。臍の下に意識を集中させる。肩と腰、左右両方のつま先を揃えて、膝の後ろを伸ばす。
弓を眺める。全長二・二メートル。私の身長よりはるかに高い。弦輪から藤頭まで視線を這わせる。よし、問題ない。今はこの弓と矢が私の生命線。中仕掛けから下関板までチェック。これも問題なし。
正面を向く。それから目標に顔を向ける。
「ナナミさん!」
チカゲちゃんとジュンが駆け寄ってきていた。
「グッドタイミングよチカゲちゃん。悪いけど、端末で山鰐がどこにいるのか教えてくれないかしら」
チカゲちゃんはすぐに、リュックの口から除いている端末を取り出して、操作しはじめた。
「ここから真北、百メートルの位置です」
さっきよりも近くなっている。目視してみると、丁度百メートルあたりの位置、ミニゴールがあるあたりで土煙が舞った。山鰐はその当たりで風月丸と戦っているのだろう。
ここにいる私に気づいている? いや、まだだ。風月丸との戦闘に夢中で、私のことは気づいていない……はずだ。これは希望的観測だ。だってまだ射の準備は整っていないのだから。
「チカゲちゃんゴメン。風月丸にはもうちょっと時間を稼いでほしいの」
チカゲちゃんは、了解とばかりに指でオーケーマークを作った。
百メートル先にいる山鰐に目をやる。風月丸に食いつこうと、大口を開けている。そう、まだ気づかないでよ。
打起こし。私はゆっくりと弓を頭の上まで持ち上げる。
ここで私はなぜか山鰐のことを考えた。私たちは山鰐を退治しようとしている。それはなぜか。決まってる、文化祭を開くのに邪魔だからだ。今年は創立八十周年という記念すべき年。そこへ人間の精気を吸い取る空飛ぶサメなどいてもらっては困るのだ。しかし、それは我々のエゴではないか? 確かに私たちは山鰐を邪魔に思っている。でもそれは山鰐からしたらとんでもない言いがかりだろう。なぜなら自分が餌をとっていたら、なぜか人間から邪魔されたのだ。
もし、山鰐が住み着いたのがこんな町中の学校ではなく、山奥の農村とかだったら。そのときは共存できたのかもしれない。
「ナナミさん!」
ふと、甲高い声が私の耳を突いた。
「山鰐がこっちに気づきました! ここに向かってきます!」
その言葉を裏付けるように、百メートル先で山鰐がこっちを見ているのが分かった。
山鰐と風月丸は、両者共に攻め手が尽きたのか、縄張りを荒らされた狼のようにお互い牽制し合っていた。
そのときだった。
山鰐はゆっくりと私たちがいる方向に鼻先を向けた。こっちに来る。風月丸は、不意をつかれたのか、一歩出遅れた。
九十……八十……徐々に距離が近くなってくる。
「チカゲちゃん、風月丸を下がらせて」
私の要請を受けて、チカゲちゃんが小さく経文を唱えると、風月丸は人間に狙われていることを悟った狐のように飛び退いた。
風月丸が退いた。これで気兼ねなく射ることができる。
頭の上に持ち上げた弓をゆっくりと引き絞る。大三を経て三分の二を通る。口割りの位置でもう一度、大きく息を吸い込む。
ゆっくりと息を吐くと、精神が落ち着いてくる。海、夜の海のイメージだ。真っ暗な水面。打ち寄せる黒い波。聞こえるのは波がさんざめく音だけ。
真正面からは山鰐が中空を泳ぐように迫ってくる。落ち着け私。しくじったら一目散に逃げたらいいだけだ。焦るな。しかし、私の意に反して手には汗が滲んでくる。そのせいで弓がずるりと滑った気がする。
落ち着け私。結界石(白)をつけた事による軌道の変化、そして飛距離が縮むことは計算ずくだ。さっきの二射から学んだじゃないか。私ならできる。
知らず知らずの内、額を一筋の汗が伝った。
そうこうしている内に、山鰐はぐんぐん迫ってくる。
七十……六十……。
山鰐は黒真珠のような瞳を、私に真っ直ぐに向けている。
……ねぇ山鰐。あんたって一体何者なの?
どうやってここに来たの?
そしてどこに行こうとしていたの?
これからどこに行くのかしら?
私はこの五日間、散々悩まされた相手のことを想った。
しかし、当然のことながら、返事が来るはずもなかった。
五十……四十……。もう少しで射程距離。
狙いは一点。山鰐の口の中の結界石(紫)。私はターゲットを見据える。山鰐の口の中。大丈夫、弓道の的の中心よりは大きい。落ち着いて離せば中る。
四十……三十……。本来の弓道では、的までの距離は約二十八メートル。もう狙える距離だ。でもまだ撃たない。ギリギリまで引きつける。あまりに遅いと私まで爆発に巻き込まれてしまうかもしれないから、そこは適当にしないといけない。
二十……ここだっ!