9月7日(金)⑯ 終焉
弦から指を離す。射法八節の七つ目、いわゆる【離れ】というものだ。
矢は弧を描きながら飛んでいく。山鰐の元にたどり着くまでにどれくらいの時間がかかっただろうか。実際の時間は二秒もかかっていないだろうが、私にはそれが一時間にも二時間にも感じられた。
そして矢は山鰐の口に吸い込まれるように入っていった。
やった! 成功だ! と思ったのだが、山鰐は以前元気にこちらに向かってくる。アレ? なんで?
首を傾げたくなったのだが、そんなことをしている間に、山鰐はもう私の目と鼻の先に来ていた。ナイフのような歯が並んだ口腔がはっきりと見えた。あ、これヤバいやつだ。
そう思った瞬間、私の脇腹に何かがタックルしてきた。大きな衝撃に息が止まりそうになる。
視界の端に今まで私が立っていた場所を山鰐が通過していくのが見えた。あのまま棒立ちになっていたら、間違いなく山鰐に食いつかれていただろう。
……あれ? こんなことが前にあったような。デジャビュを感じている頭の上から「ボヤッとしてんな!」と叱咤の声が降ってきた。
ここにきて、ジュンが私を助けるために飛び込んできてくれたのだということに気づいた。
確か二日前、旧校舎でこんな風にジュンに助けられたわね。
「さっさと逃げるぜ!」
強引に立たされた上に、腕を引っ張られる。痛い。
さっき私が用意しておいた避難場所に向かう。体育倉庫の前ではすでにチカゲちゃんが待っていて「急いでください」と手招きしている。
でもどうして山鰐を倒せなかったのだろうか? 確かに私は矢が山鰐の口の中に吸い込まれていくのを見た。しかし、口の中に入ったはいいのだが、結界石(紫)には中らなかったのだろうか。
とにかく作戦は失敗してしまった。矢は残り三本あるが、これを命中させるだけの気力と集中力が残っているかは疑問だ。ここはジュンやチカゲちゃんの言うとおり、新しい作戦を考えた方がいいのではないか……。そう考えたときだった。
何かがぶつかるような音がしたので、振り返った。すると山鰐が苦しそうに身をよじらせていた。
何だろう? と思っていたら、山鰐の口元に何か光るものが見えた。
「ナナミさん! 中ってたんですよ! ナナミさんの矢は口の中の結界石に命中していたんです!」
チカゲちゃんが嬉しそうに手を握ってきた。
中ってた? 私の矢が? そうか、すこし遅れて効果が出てきたのか。
山鰐の口内から発せられた光は、段々と広がってきていた。最初は豆球ほどの大きさだったものが、今や山鰐の体全体を覆うほどになっている。
山鰐は二度、三度苦しそうにもがいた。
「すげぇ……これが結界石(紫)の威力かよ」
ジュンが呟く。
光はもうすでに山鰐の身体の九割を覆い尽くしていた。もはや元の姿を想像することはできないくらいだった。
それからしばらくして「ウォォォーン」という雄叫びが聞こえてきた。おそらくは山鰐のものだろう。最後の断末魔だ。
その叫びが終わると、巨大な光の固まりは小さな粒となって四散した。
……。
「……」
「……」
私、ジュン、チカゲちゃんの三人はその光景を立ち尽くしながら見ていた。
「や……やったのか?」
不意にジュンが口を開いた。
次にチカゲちゃんが目を閉じて、なにやら精神集中している。おそらくは山鰐の妖気を探っているのだろう。数秒経ってから、安堵したように息をついた。
「大丈夫です。山鰐の妖気は完全に消えました。もう安心です」
ホント……? 山鰐を退治したの? 半信半疑でチカゲちゃんを見ると、柔らかな表情でコクリとうなずいた。その向こうのいる短髪の空手部員に視線を送ると、力強く親指を立てた。
「やった……やったのね……」
私は力なくその場にくず折れる。
そうか、もう終わったんだ……。
「やったなナナミン」
ジュンが嬉しそうに私の頭をくしゃくしゃにする。おいこら。
「ここからが大変よ」
「ん!? 何が? もうサメ公は退治したじゃん」
「山鰐が暴れたことで、せっかく準備した模擬店とかが無茶苦茶になっちゃったからね。これから直さないと」
「はぁ!? 直す!? 今から!? 無茶だろ!? 文化祭は明後日だぜ?」
ジュンがそう言いたくなるのも分かる。何しろ私たち三人の目の前に広がっているのは世紀末さながらといった風景なのだから。ここからまともに文化祭ができるように復旧させようと思ったら、山鰐退治以上に難儀するかもしれない。
「ジュンさん、もしかして面倒くさいんですか!?」
チカゲちゃんが、悪戯好きの猫のような表情で訊いた。
「いや、そんなわけじゃねーけどよ」
「大丈夫ですよ。ナナミさんやジュンさんがいるなら。それにわたしも手伝いますから。一回やってみたかったんですよねー、文化祭って」
そうか、チカゲちゃんは学生をしたことがなかったのだ。だとしたら、この機会に高校生というものを疑似体験してもらうのもいいだろう。
「とにかく、山鰐事件が解決したことを宮本先輩に報告しないと」
そういえば私のスマホはどこにやったのだろうか。そうだ、自分のデイバッグの中だった。
取りに行こうと思って、立ち上がろうと思ったら、足に力が入らない。
アレ? どうしたんだろう? 腰が抜けてるのかな?
そう思った瞬間、私の身体から力が抜けていった。ひんやり冷たくて固いものが背中に当たった。これは何だろう? ああ、これは地面だ。私は地面に寝転がっているのだ。いや、でも暢気に寝ている場合じゃあない。これから宮本先輩に、報告しなければならないっていうのに。ここで私は昨日の夜から碌に睡眠をとっていないことを思い出した。
「おい! ナナミンどうした!?」
ジュンの声がどんどん遠くなっていった。