9月4日(火)⑤ 予感
「有沢、大丈夫か?」
見上げると、養護の山本先生の顔が覗き込んでいた。
私は喉の奥から何とか声を絞り出した。声がかすれているのが自分でも分かる。
「ええ、大丈夫です、ありがとうございます」
私は野次馬の群れから少し離れた所に、腰を降ろしていた。
普段、旧校舎に来る人間なんて滅多にいない。しかし、今日ばかりは大勢の野次馬が集まっていた。
今、丁度アカリがストレッチャーで運び込まれた所だ。林の中の一本道、その向こうに赤と白のツートンカラーの救急車が見える。一定のリズムで明滅する赤色光が目に痛い。
暫くしてから、けたたましいサイレンの音が聞こえる。ドップラー効果を残して去って行く救急車を見送りながら、私は胸にナイフを突き立てられたような気分になった。
「姉貴……」
横のカケルが、まるで深刻なものを見るような視線を送ってくる。……やめてよ、何で弟のあんたにそんな目で見られなきゃなんないのよ。
周りの野次馬から「お前のせいだ」と責められているようだ。針のムシロとはこのようなことをいうのだろうか。
傍らにいる山本先生に呟く。
「私のせいです……、私が一人でアカリをこんな所に行かせたから……」
「お前は悪くないよ、有沢」
そう言って山本先生は、私の肩をぽんと叩いた。
山本アズサ先生は、菊川高校の養護教諭だ。すらりとした長身、ロングヘアーを後ろで束ねてポニーテールにしている。クッキリとした目鼻立ちをした美人だ。
先生がそう言ってくれたおかげで、私の心は幾分か軽くなった気がした。
しかし、私には一つの疑問があった。
偶然にもその疑念を、ジュンが代弁してくれた。
「なぁ、やまもっちゃん。あの娘、川口サンだっけ? 何が原因で倒れたんだ?」
「分からんな」
山本先生は首を振った。
「川口に何か持病があったという記録はない。有沢もそんな話、聞いた事無かったろう?」
私は首肯する。
「おそらくは連日の過密日程で、疲れが溜まっていたんだろうな。幸い大事無いようだから、お前達、安心していいぞ」
私たちを安心させるためだろう、先生はそう言ってくれたが、私は合点がいかなかった。
さっきまでアカリは元気そのものだった、とても体のどこかに異変があるようには見えなかった。
確かに、連日文化祭の準備で、激務が続いていたのは確かだ。しかし、あんなに元気だった人間が、急に倒れるものなのだろうか?
私の胸の中に、何かどす黒い染みのようなものが湧きあがってくるのを感じた。
その時だった。
見覚えのある顔が、私の視界に入ってきた。野次馬に紛れても、あの顔と、漆黒の髪は忘れようもない。
「おい! 姉貴!」
「ナナミン! どこ行くんだよ!」
弟とジュンの声を無視して、私はいつの間にか駆け出していた。
「ねぇ、待ってよ!」
ごった返す野次馬をかき分け、ようやく少女に追いつく。黒髪の少女に声をかける。周りの生徒達が、怪訝そうにするが、気にしている場合ではない。
「何か用かしら?」
少女は全く表情を動かさずに答えた。
「ねぇ、アカリに何があったの、教えて?」
「何の事?」
「とぼけないで、知ってるんでしょ?」
「言っても貴女は信じないわ」
「勝手に決め付けないで」
どれくらいの時間、この麗人と視線を合わせていただろうか。
「おい、ナナミン。何してんだよ」
人ごみを掻き分け、ジュンが割り込んできた。
「この娘、多分アカリが倒れた理由を知ってるわ」
「えっ! マジかよ?」
ジュンが目を丸くしながら驚く。
「あなた達に教える義理はないわ」
あくまで黙秘を続けるようだ。そして、くるりと踵を返して立ち去ろうとする。
しかし、私の方もハイそうですか、と引き下がるワケにはいかない。折角見つけた手がかりなのだ。
「待って!」
思わず、彼女の腕を掴んだその瞬間――少女の冷たそうな目と視線があった。その星の無い夜空のような目に、ぞっとしたそのとき、体を支える両方の足から、力が抜けた。
「きゃっ!」
わたしは地面に両膝をついていた。比喩表現でもなんでもなく、文字通り本当に地面に正座をするような格好で、膝をついていた。
??? 一体何が起こったの? 私はただ単に、彼女の腕を掴んだだけだ。それなのに、急に足から力が抜けて……。
「今のって、化勁かい?」
振り返ると、ジュンがニヤニヤと不適な笑みを浮かべていた。
カケイ……? 何それ?
私の疑問に答えるかのように、ジュンが口を開いた。
「中国武術で、相手の力を利用する技術のことだよ。ま、実際に見たのは私も始めてだけどね」
ジュンって意外と博識だったのね、なんて言ったら怒られるだろうか。
「そんな大層なモノじゃないわ、力の向きを変えただけよ。ちょっと稽古すれば、誰でもできるようになるわ」
抑揚の無い声で答える黒髪の少女。
「またまた~謙遜しちゃってぇ~」
おちゃらけたように言うジュン、しかし、この空手少女の眼には、明らかに警戒の色が濃く浮かんでいた。
ところでさ
と、ジュン。
「お姉さん、この眼鏡ちゃんの友達が倒れた理由、知ってんだろ? 教えてやってくんねぇかなぁ?」
と、謎の少女に請う。一応私のことを慮ってくれてるのね。っていうか誰が眼鏡ちゃんだ。後で説教だわ。
「子供の頃」
と、黒髪の少女が口を開いた。
「赤信号を渡ろうとした事って、あるでしょう? その時、あなた達のお母さん若しくは、お父さんはまずあなたの手を引っ張って、歩道に連れ戻した筈よ。それから何故赤信号で渡ってはいけないか、教えてくれたでしょう?」
私とジュンに何か諭すように話す少女。
「何の事言ってんだ? アタシ頭悪りーもんでさ、もちっと分かりやすく話してくんねーかな?」
「あなた達は、今まさに赤信号を渡ろうとしてるの、横からダンプカーが猛スピードで迫ってきてる事も知らずにね。私はそのあなた達の手を引っ張ってあげてるのよ」
「……つまりどういう事」
私は堪らず横から口を挟んだ。
「これ以上、首を突っ込まないほうがいい」
そう言うと、少女は目を細めて、視線を私達に向けた。その目には斬りかからんばかりの真剣さがあった。
それから少女は、私の目を見据えてこう言った。
「これは警告よ」
私は知らぬ内にゴクリと唾を飲み込んだ。
頬を一筋の汗がタラリと流れる。
「あなたって一体……何者なの?」
少女は私の問いに答えることはせず、踵を返すと、森の中の道を去って行った。
警告?
一体どういう意味だろうか? 彼女は一体何を知っているのだろうか? 考えても考えても訳が分からなくなってくる。
アカリが倒れたのは、過労のせいではないのか? 見知らぬ第三者の手によるものなのか? もしかして……。
「おい、ナナミン」
ポンと肩に手が置かれる感触があって、私はようやく現実に引き戻された。
「ジュン……」
「どうすんだよ、これから」
「…………」
「多分相当ヤベーのがバックにいるんでねぇの?」
私とジュンは、野次馬でごった返す旧校舎前で、ただ立ち尽くしていた。