9月6日(木)④ 蹂躙
風月丸を倒した山鰐は、近くにあったたこ焼き屋のテントに襲いかかる。天幕に食らいつくと、一気に引きちぎった。布が裂ける音と金属が軋みあう不快な和音が、私の鼓膜を突き刺した。それにともなって、生徒たちの悲鳴と怒号が響き渡る。
そこからはまさに阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
山鰐は近くにいた男子生徒に食らいつくと、その精気を吸い始めた。そしてそれが終わると、まるでゴミでも捨てるかのように、その生徒を投げ捨てた。
それから山鰐は、グラウンドに並んだ模擬店の列に襲いかかった。模擬店は簡単な骨組みに、テントとをのせただけの代物だ。大きなサメに襲われたらひとたまりもない。まさに鎧袖一触だった。山鰐が軽く体当たりしただけで模擬店はまるで飴細工のように崩れてしまった。
それはまさ侵略だった。
山鰐はグラウンドの模擬店を、まるでエンジンが壊れたモーターボートのように泳いでゆく。そして手当たり次第に、食らいつき、そして破壊する。
サメがその太い尾を振ると、模擬店が崩れた。
校舎から伸びていた垂れ幕に喰いつくと、それもあっさりと引きちぎった。
私たちが、橘川高校の生徒達がこの一か月間、身を粉にして準備してきた模擬店が、あっという間に破壊されていく。ほんの数分前まで、笑い声が響いていたはずのグラウンドには、悲鳴がこだましている。
いてもたってもいられず、生徒会室を飛び出ると、弾丸のように廊下を疾走、飛び降りるように階段を駆けおりるとグラウンドに出た。目の前では相も変わらず、サメによる地獄のような光景が繰り広げられていた。
もう止めて!
私は叫ぶ。
しかしそんなことで山鰐が止まるはずもない。彼の魔魚は狂宴を続けるのだった。
もう一度叫ぼうとしたが、声が出てこなかった。もれてくるのは嗚咽だけだったからだ。
気が付いたら頬が濡れていた。それが自分の目から流れた涙だということに少し遅れてから分かった。
目の前で繰り広げられる、地獄のような光景を見ているのが辛くなって、手で顔を覆った。それでも耳に悲鳴や破壊音が届いた。それからも逃げるように耳をふさいだ。
どれだけ時間が経っただろうか。三十分くらいだろうか、もしかしたら十分かもしれないし、本当は五分も経っていないのかもしれない。
肩を強く叩かれて顔を上げた。そこには哀しそうな顔をしたジュンがいた。
ふと辺りを見回してみると、山鰐はもういなかった。おそらくは満足したのだろう、すでに自分の巣に引き返した後のようだった。 残された景色は悲惨の一言だった。
模擬店はほぼ壊滅して、残骸だけが無残に晒されている。その傍らでは女子生徒がすすり泣いている。校門を彩っていたアーチは無残に折れていた。校舎の垂れ幕はぼろ雑巾のように引き千切られている。地面には山鰐に襲われた生徒が、死体のように転がっている。
私はその地獄のような光景の中、亡者のように歩いた。そして、ある場所にやって来た。
そこではカケルが真っ青な顔をして、ひん曲がった什器を拾っている。私に気が付いて、力なく笑った。
「ははっ、姉ちゃんゴメン。フランクフルト屋、ダメになっちゃった」
この絶望的な状況にもかかわらず、無理にでも笑おうという努力がいじらしい。
いいのよカケル。あなたは何も悪くないわ。悪いのはあの悪魔のようなサメと……実行委員長のくせにそんな危険なバケモノがいることを知りながら、のうのうとほったらかしにしていた……私なんだから。
立ち上がった私を見て、カケルが目を丸くした。
「……どうしたの? 姉ちゃん」
決めたのよカケル。私は私にできることをやる。もう起きてしまったことは変えられない。でも未来は変えることはできる。
拳を握りしめる。あまりに強く握ってしまったために爪が食い込むけど、そんなの関係ない。
「ナナミさん、申し訳ありません」
背後からチカゲちゃんの声が言う。
「まさか風月丸があんなにあっさりと倒されるとは思いもよりませんでした。山鰐があそこまで成長しているとは予想外でした」
振り返ってチカゲちゃんを見る。視線が合った瞬間に、チカゲちゃんがビクッと身をすくませる。
「ナ、ナナミさん……」
「決めたわチカゲちゃん。正式に依頼するわ。あの山鰐を退治して頂戴」
「わ、分かりました。早速準備します」
「私も手伝うから」
そう言って私は、校舎の方に歩き出す。
背後からカケルが私を呼ぶ。
「姉ちゃん! どこ行くんだよ!」
ちらりと振り返って心の中でそれに応える。
大丈夫。お姉ちゃんにまかせて。