9月5日(水)② 会敵
サメ。
サメとは軟骨魚綱板鰓亜綱に属する魚類のうち、鰓裂が体の側面に開くものの総称を云う。パニック映画や、アニマル番組でおなじみの『あの』サメである。
私の目の前に突如として現れた灰色の魚は、そのドリルの様に細長い鼻をヒクヒクとさせながら、土の匂いを嗅いでいるように見えた。オールのような胸ヒレ、波打つように動くエラ、そして、酷薄そうな目、以前に動物番組で見たサメそのものである。本物のサメが目の前にいる。この非現実的な事実によって、私は暫くその場に立ち尽くした。
だがしかし、私の記憶が確かならば、サメが生息しているのは遠い遠い海であって、こんな地方都市の県立高校の敷地内、ましてや陸の上にいて良い生き物ではないはず しかしながら、現実に私の目の前にサメが存在し、空中をまるで泳ぐかのように飛んでいる。そうだ、これは夢だ。夢なのだ。本当の私はベッドの中ですやすやと眠っているのだ。そう無理にでも思い込もうとしたとき……サメと目があった。まるで黒真珠の様に真っ黒で、何の感情もなさそうな目だった。
海の捕食者は土をまさぐるのをピタリと止めた。そして顔を上げるとゆっくり、ゆっくりと出来の悪い機械人形のような動きで、私の方に近づいてくる。ノコギリのようにギザギザの歯が並んでいる口腔。その両端が僅かに吊り上る。そのために、サメがまるで笑っているように見えた。いいや、実際に笑っているのかもしれない。なぜ? 決まっているだろう。エサを見つけたからだ。では、そのエサとは? そんなの分かりきったことだ。私だ。私以外にいない。
サメと私との距離は見る見るうちに縮まってくる。そして奴はまるでスローモーションのような緩慢な動作で口を開ける。
私の視界に広がるのは赤。まるで血のような赤で染められた凶魚の口腔内には、まるでナイフのように尖った歯が、整然と並んでいた。
サメの歯って、何回抜けてもいいように、何重にもなっているって本当だったんだ。今この瞬間にも捕食されようとしているのに、私は何とも呑気な事を考えていた。
そして、サメの大きな顎がまさに目と鼻の先に来たその瞬間。
「危ねぇ!」
茂みから何かが飛び出してきてタックルしてきた。地面に押し倒される私、頭を打たないようにするのが精いっぱいだった。視界の端に、私の頭があった空間にサメが噛みついているのが映った。
ガチン!
身が凍るような音が頭の上から降ってきた。
一瞬息が詰まりながら顔を上げると、どこか見覚えのある顔が私を見下ろしていた。
「おい! 大丈夫かナナミン!」
ショートヘアーにどこか少年っぽさを漂わせた顔立ち。間違いない、菊川高校有数の問題児、相馬ジュンその人だった。
「早く立ちな!」
ジュンは私の腕をつかんで、強引に立たせる。
どうしてこんな所に? そう聞きたいのは山々だったが、状況が状況だけにそれは憚られた。
「ほら! とっとと逃げるぜ!」
言うが早いか、ジュンはすでに駆け出していた。私も急いでそれに続く。
ちらりと後ろを振り返ると、サメはグルルと一つ鳴くと、私たちを追いかけてきた。まるで飛ぶように中空を泳いでくる。その恐怖に、思わず私の足から力が抜けそうになる。
新校舎への道のりをただひたすらに走る。走る。走る。
おそらく、今までの人生の中で、最も足がよく動いているのではないか。当たり前か、もしこの競争に負けたら、私はサメの胃袋の中へ直行するのだ。捕食される恐怖というのは、ここまで凄まじいものだったのか。
ここでちらりと後ろを振り返る。もしかして、サメが追うのを諦めてくれているかもしれない、と淡い期待を抱きながら。しかし、そのわずかな希望はあっさりと打ち砕かれた。サメは俄然元気に、私たちを追いかけてきているのだった。絶対に逃がしてなるものかという、ある種の気概まで感じる。
しかし、まさかサメと追いかけっこをする羽目になるなんて、思いもよらなかったわ。こんなことなら、普段から運動しとけばよかった。
前をまるでトムソンガゼルの様に走るジュンは、チッと小さく舌を打った。そして次の瞬間、信じられない行動に出た。
「ナナミンは先に行ってな!」
そう叫ぶや否や、彼女はくるりとターン。中腰に構えると、大きく息を吐いた。
まさか…………戦うつもり? いくら格闘技をやってるとはいえ、生身の人間がサメを相手に?
「無茶よ! 今からでも遅くないわ! 逃げ……」
「あのまま逃げてもいつか追いつかれてるよ! だったら今この場でぶっ叩いた方がまだ助かる確率が高い!」
「でも……」
「どっちにしろ今から逃げても遅ぇよ。何とかしてやるから黙って見てろよ」
そう言い捨てると私の方を見て、ぺろりと親指を舐めた。
そうこうしてる内に、サメはジュンの目と鼻の先まで来ていた。そしてさっきみたいに大きな口を開けて……。ジュンに飛びかかった、その瞬間。その場にいたジュンが煙のように消えてしまった――かと思うと、二メートル離れた別の地点に突如出現した。がちん! という身も凍るような音を立ててサメの顎が閉じる。
ジュンが瞬間移動した――ように見えたのだけど、あとから考えると、彼女がとんでもないスピードで動いたことに気付いたのだが、それはまた別の話。
上手くサメの横っ腹に回ったジュンは、右フックを凶魚の右わき腹に突き刺した。
「うらぁっ!」
ズボッという鈍い音が耳に届いた。サメは身をよじらせて「グゥ」と鳴いた。ジュンのパンチがきいているのだろうか。いくら格闘技の経験者とはいえ、生身の人間の攻撃が野生の動物に効いているなんて、信じられない(空飛ぶサメなんて、普通の動物とは言えないかもしれないけれど)。
サメは一瞬怯んだものの、すぐに体勢を立て直すと大きな顎を開けて、ジュンに飛びかかった。それを左に跳んでかわず空手少女。着地と同時にサメの白い腹に膝蹴りを叩き込む。サメの体が宙を泳いだ。そこへジュンが踵落としを叩き込む。それが効いたのか、サメはKO寸前のボクサーの様にフラフラになりながら着地した。
――これはもしかして何とかなるんじゃないのか? よくよく見てみれば、サメは体長一メートル強くらいで、中型犬程の大きさだ。そんなに大きな個体ではない。
もしかしたら助かるかもしれない。そんな期待を抱いて、私は唾をごくりと飲み込んだ。
サメは恨みがましそうな目でジュンを睨みつける。そんなサメをジュンは、まるでハイエナと餌を奪い合う雌ライオンのような目で睨み返す。
――次で決まる。
根拠はない。しかし、直感的にそう思った。
サメは出撃前の戦闘機の様に、地面スレスレを漂っている。そして、隙を伺うかのようにジュンを見上げている。ジュンはジュンで微動だにせず、中段に構えたまま石像のように動かない。
そのままくらい時間が経っただろうか。一分? 十分? いや、一時間かもしれない。そんな永遠ともいえる時間が過ぎ――
我慢がしきれなくなったのか、サメがジュンに飛びかかった。
いつか体育の時間に見た、女子バレー部員のジャンピングサーブをよりも鋭い動きだった。双方の距離は三メートルは開いていたと思う。しかし、その距離を一瞬に縮める、恐るべき跳躍だった。
サメは血のように真っ赤な口腔を開き、ジュンの側頭部を食いちぎらんと跳びかかった。対するジュンも、超人じみた反応速度でそれを見切り――
寸でのところでそれを躱した。
サメのジャンプ攻撃は見事に空を切ったのだった。
もうここで勝負あったと言えるだろう。
サメは自らの渾身の一撃が空を切ったことを察知したのだろう。素早く身を翻し、二撃目に移るべく体勢を立て直そうとしているようだ。
しかし、それよりも速く――時間にしてゼロコンマ何秒かもしれない、しかし絶対的な差だ――、ジュンの踵落としが凶悪なサメの鼻先に炸裂した。
その衝撃でサメは固い地面に叩きつけられる。魔魚は苦悶の雄叫びをあげ、地面の上でのたうった。