9月5日(水)④ 服部チカゲ
なっ、何なのこれは?
その子供の腕ほどの太さの胴体を追って行って、私は恐怖のあまり、失神しそうになった。
先程ジュンが倒した筈のサメが起き上っていて、その真っ赤な口腔から例のヘビが射出されていたのだ。
「な……何で? 死んだんじゃなかったの……?」
泣きそうになりながらそう呟いた私に、
「おい……ナナミン」
消え入りそうな声でジュンが囁く。
「……これマジでやべぇかも……」
…………。
……。
確かにジュンは問題児かもしれない。しかし、こんな暗い旧校舎の裏で、訳の分からない生き物に食い殺される程の悪人でもない。しかも、私は彼女に命を助けてもらった恩があるのだ。
命の恩人を見捨てるほど、私は冷酷な人間ではない。
「待ってて!」
私は藪の中から、手ごろな棒っ切れを掴んでくると、サメの本体を力の限り殴りつけた。
しかし、サメは微動だにしない。私の渾身の一撃も、サメにとっては蚊に刺された程にも感じなかったようだ。
早く放しなさいよ! たかがカマボコの材料のくせに!
ここで私は、さっきのジュンの一言を思い出した。――サメは鼻先が弱い――
そのサメの尖った鼻っ柱に、渾身の一撃を加えるべく、大きく振りかぶったその瞬間――
サメが大きく身をよじった。尾びれが私に向かってくるのが見えた。柔道部員の腕ぐらいの太さの尾びれが、私の下腹部にめり込む。一瞬呼吸が止まる、ジェットコースターに乗った時の様に目の前の世界が流転。そこから一拍遅れて、背中に大きな衝撃。ここで私はようやく自分が、地面に叩きつけられたことに気付いた。全身がバラバラになったかのような痛みが私を襲う。息を吸おうとしても、喉の奥から、ヒューヒューという細い呼吸の糸が出てくるだけ。起き上れない。そうこうしている内にジュンの目から光が失われてきている。呼吸も明らかに弱くなってきている。
ドクン。私の心臓が跳ね上がる。目の前で人一人の命が失われようとしている。その事実は私に想像以上の力を与えてくれたようだ。私は足元にあったコンクリートブロックを持ち上げると、思い切りサメの脳天に叩きつけた。ゴシャン! という音と共に、、嫌な感触が伝わってきた。
ブロックで殴られるのは流石にこたえたのか、サメはフラフラと後退したと思いきや、土の上に横倒しになった。
多分、サメは死んではいないだろう。しかし、一応の時間稼ぎにはなるはずだ。私はジュンの元に飛んで行って、彼女に喰いついている触手を剥がしにかかった。
……間近で見る『それ』は、思ったよりも生理的嫌悪感を催すものだった。ヘビというよりも、それは軟体動物の肢だ。ベトベトの液体で覆われた体表は、不気味な光沢を放っている。黒と紅のまだら模様は、地獄の業火で焼かれる魔女の顔を思い浮かばせる。
うぅ……気持ち悪い……正直言って触りたくない。しかし、私がやらなければ、誰がジュンを助けるというのか。私は意を決して、触手の口に手をかけると、力任せに、こじ開け始めた。
女の私の力でも何とかなるようで、五秒ほど格闘して何とか最初の触手を引っぺがすことに成功した。
残り二匹。
私が二本目の触手に手をかけようとした瞬間……背後から、グルル……という怨みの籠った呻き声が聞こえてきた。
恐る恐る振り返った私の目に映ったものは……サメが起き上ってくる光景だった。歯をガチガチとならし、私とジュンを睨みつけてくる。その目は怨みという、どす黒い炎で燃え上がっているように見えた。
「ぐぅっ」
不意にジュンが苦しそうな声を上げた、と思うとジュンの身体が徐々にサメの方に引きずられ始めた。
「ちょっと! 何すんのよ!」
私は叫んで残った二本の内、一本を外しにかかった。しかし、思うように力が入らない、むしろ私が抵抗すればするほど、より強くジュンを引きずって行く。
「おい……ナナミン……もういいよ、無理すんな……」
そんな世迷言を聞くほど、私は聞き分けがよくない。渾身の力を込めて、汚らしい触手をジュンから外そうとするが、その牙はピクリともしない。
傍から見たら、馬に引き摺られる罪人のような格好になっているに違いない。
まるで綱引きだ。命をかけた綱引き、しかし、こちらには勝つ術はない。
私たちが今いる旧校舎は、学校の敷地内の端の端のそのまた端にある。どれだけ大きな声を出そうとも、誰も来ないだろう。しかし、祈らずにはいられなかった。
誰か……誰か……。助けて……。
すると次の瞬間、不思議なことが起きた。
サメの口から伸びている二本の触手、その忌々しい触手が、ブチッとゴムの様に千切れた。
頭の方が、ビタンビタンと地面の上で跳ねる。切断面からは、ピンク色の肉が覗いていた。
私は何が起きたのか理解できず顔を上げる。
見上げた先にあった顔に見覚えがあった。
木漏れ日を纏うクスノキをバックに佇むその少女は……。
緩やかにウェーブした髪、雪のように真っ白な肌、細い手足。間違いない。昨日の放課後、記念碑前にいた娘だ。