9月5日(水)⑤ 風月丸
「ね、ねぇ、あなたって」
「ごめんなさい、後で全部説明します」
少女は私の問いを遮って、ブレザーの内ポケットにそのたおやかな指を滑り込ませる。取り出された手の中には、一枚の紙片があった。護符だ。
黒髪の少女は護符を指で挟んだまま、和弓を引き絞るかのように腰だめに構え、そしてサメに向かって放った。
「滅!」
その痩身からは想像できない、力強い声だった。
護符がまるで鷹匠の鷹のように、一直線にサメに向かって飛んでゆく。
護符とサメがぶつかった瞬間、サメの頭部がスパークする。
魚体が弾け飛ぶ。しかし、サメにはダメージが無かったのか、すぐに体勢を立て直した。サメは少女からの敵意を感じ取ったのだろう、グルルと唸った後……大きく吼えた。背筋が凍りつくような咆哮だった。
その雄たけびをものともせず、少女は獲物を見つけたハヤブサのような目で、目の前のサメを睨めつけていた。
まさかとは思うが、女の子はサメと戦うつもりなのだろうか? だとしたら余りにも無謀だと思う。少女は見たところ武器のようなものは何も持っていない。食い殺されるのがオチだ。
凶暴なサメの前に立ちはだかる女生徒は、余りにも小さく、そして儚く見えた。
「風月丸!」
不意に少女が叫んだ。すると、彼女の影がとぷんと波打った、そして次の瞬間、地面から棒のようなものが生えてきた。よくみたら、それは人間の腕だった。青白い手が地面を掴んだ次の瞬間、まるでゾンビのように、胴体部分が彼女の影から這い出てきた。
死神……。その人影を見た瞬間、私の頭に浮かんできたフレーズだ。首から足元までが真っ黒なマントで覆われている。そしてかなりの長身だ。ジュンと比べてもかなり背が高いことが分かる。人の形というよりも、一本の長い棒がそこに据え付けられているように見える。
その黒マントの面皮には、東南アジアの呪術師を思わせる不気味な仮面が装着されている。そのマスクの向こう側には、真っ白な髪の毛が、海藻の様に揺らめいていた。
「風月丸、時間を稼いで」
少女がそう言うと、黒衣の大男の仮面が僅かに上下した……ように見えた。
次の瞬間、黒マントは一瞬身を屈めたかと思うと、ピューマの様に跳躍、サメに飛び掛った。
黒マントはサメの首の辺りに取り付くと、二本の腕でチョークスリーパーの様にサメを締め上げ始めた。
サメの方も抵抗を見せる。何とか黒マントに噛み付こうと、右に左に激しく身をよじらせる。
がちん、がちん、と恐ろしげな音が回り一面に響く。
しかし、黒マントはサメの顎の死角に入っているらしく、その牙は空を切るばかりだった。
急にサメが黒マントに取り付かれたまま、二階の窓の高さまで上昇した。
そのまま、小型飛行機のように中空を旋回、黒マントはまるでロデオのように空中で振り回される。
突如、サメが校舎の側面に激突、黒マントは丁度サメと校舎にプレスされる形になった。流石にサメのボディといくら木造とはいえ、校舎の板ばさみになっては、堪らなかったのか、黒マントはエラに引っ掛けていた手を思わず離してしまっていた。
地上三メートルから落下する黒マント。どかっという気味の悪い音を立てて地面でバウンドする。操り人形の様にぐったりとしたまま動かない。もしかして死んだのか?
私の頬に汗が一筋タラリと流れた。
その時、上空から、かの凶魚が大口を開け、猛然と黒マントに襲い掛かる。その口腔は炎のように真っ赤に染まっていた。
サメが黒マントに噛み付かんとするその一瞬! 寸での所で黒マントが身を翻した。サメの口元でガチンという金属にも似た音が鳴る。黒マントその身を横転させ、サメとは離れた場所で素早く身を起こした。
四メートル程の距離で睨み合う一人と一頭。黒マントはいつ飛び掛られてもいいようにだろう、腰を落としてサメの鼻先を凝視している。
一方のサメの方も、食事の邪魔をされて怒り心頭といった様子だ。黒マントを黒真珠のような目でねめつけている。
…………。
ねぇ、これは本当に現実の世界で起きてることなの? 私は何か悪い夢でも見ているんじゃないの?
「残念だけど現実です」
凛とした声に振り向いてみると、黒髪の少女がそこに立ち尽くしていた。
「こっちに来てください」
そう叫ぶと彼女は私の手を引いて、脇の雑木林に入っていく。
ブナの木の下、立ち止まった彼女は、人差し指を眉間に当てる。そして、何かをブツブツと呟いている。
何をしているのだろうと思っていると、私の足元が青い光を放ち始めた。驚いていると光は何かの紋様を形造り始めた。数秒後、不思議な幾何学模様が私の足元の地面に描かれていた。
「結界です」
少女が言う。
「結界?」
「その中にいれば大丈夫です。あいつは襲ってきません」
それだけ告げると、少女は踵を返した。その向かう先では睨み合いに飽きたのか、サメと黒マントが怪獣映画よろしく取っ組みあっていた。
「ねぇ! アナタはどうするの?」
私は訊いた。
「当然、闘います」
そう言って彼女は振り向く。その紙のように白い顔には、薄く笑みさえ浮かんでいた。
私は何かを言おうとしたが、もうすでに彼女は脱兎の如く駆け出していた。その時気づいたのだが、彼女は光沢のある細い棒のようなものを手にしていた。少女が棒のボタンを押すと、シャリン! という金属音とともにその棒が伸びた。
それはお坊さんが持っている錫杖だった。そんなモノを持っている彼女は一体何者だろうか。くすんだ茶色をしている錫杖の先端には、金属の輪が十個ほど取り付けられている。
彼女は走りながら錫杖を中段に構える。
「イエヤァァァァッ!」
空気を切り裂くような鋭い声。同時に銀色の斬撃を打ち下ろす。
危険を感じ取ったのか、黒マントと向かい合っていた凶魚はその巨体を翻すと、さらに離れた位置に身構えた。
これで二対一。サメの方が不利になった。
新たな敵の出現に、サメは明らかに激昂しているようだった。怒気を帯びた目でこちらを睨みつけてくる。しかし自らの劣勢を感じ取ったのだろう、少女と黒マントを一睨みすると、クルリと反転し、ブナの林の向こうに消えていった。